今回は、鷺沼から荏田迄歩きました(2016年9月21日)。
このあたりの大山街道は下の地図のとおりです。「今昔マップ3」を使い、オープンストリートマップと明治時代後半の地図にコースを重ねました。赤色の破線は旧大山街道に最も近くかつ現在歩ける道で、オレンジ色の破線は寄り道です。上の絵は、渡辺崋山の遊相日記から有馬の挿絵です(国立国会図書館デジタルコレクションより)。
鷺沼駅を出て、八幡坂①を進むと国道246号線に出ます。その角辺りに下の写真の阿弥陀堂があります②。
この辺りからしばらくの間、旧大山街道が失われておりジグザグに進みます。
少しばかり246号線に沿って進むと有間川を渡ります。下の写真では、左側が有馬川です③。といっても、下に川が流れているとは気づかずに歩いています。
渡辺崋山の書いた遊相日記に、有馬と題する下の挿絵があります。江戸時代のこの辺りの様子が分かりますが、残念なことに、遊相日記にはこの絵の説明がないため、どこを書いた絵なの分かりません。しかし、金子勤著「大山道今昔」に、「大山道から北の鷺沼耕地の田んぼと小さな丘陵がえんえんと続くさまを旅日記帳に速写した」という記述があります。それに従い現在の状況をグーグルマップに表してみました。上の地図の黄色の幅広の矢印の方向から見た様子です。手前に有馬川が直線的に見えるようにしてあり、有馬川が途切れるところが国道246号線です。あまり明瞭ではありませんが、先の方には丘が並んでいることは分かります。
さて、先へ進みます。
馬頭観音があります④。この形は笠付角塔(かさつきかくとう)というようです。
更に少し進むと、道路とは角度の違う方向を向いた家があります⑤。この辺りは、上の地図で、旧大山街道は緑色の破線のように走っており、この道に沿った方向に作らていたことが分かります。
何やら家の中を覗き込んでいる人がいますが、ここは、川崎考古学研究所です⑥(Nさん撮影)。予め予約をしてあると見学できるのだそうですが、この日は予約をしていなかったため入れず、せめて陳列状態だけでも知りたい、と覗き込んだものです。
下は、川崎市と横浜市の境の辺りです⑦(Nさん撮影)。横浜市の港北ニュータウンが見えてきました。
この先は、うとう坂、血流れ坂と続きます。
途中、道からそれた所に、下のような馬頭観音碑があります⑧。この碑文は複文になっており、「この碑は・・・を願いここに建立する」の内側に「馬頭観音を・・・この地に移転安置した・・・安穏を願い」とありますので、辺りを見たのですが、この碑の近くには馬頭観音らしきものは見当たりません。どこにあるのでしょうか。
更に進むと、日吉元石川線にぶつかります。ここで、地図のオレンジ色の破線の方向にある我らのメンバーの一人AFさんのお宅で一休みさせてもらいました。
元気回復したところで、旧大山街道に戻り先へ進みました。下は、後半のルートの地図です。
横浜市営地下鉄の高架橋の下っを進むと、下の写真の不動滝があります⑨。昔は、雨乞いの霊験があったそうで、さらに、この水を飲みながら、喘息、咳、風邪の治癒を願ったのだそうです。
横の階段を上がると老馬鍛治山(ろうばかじやま)不動堂と稲荷社があります。
ここで、この辺の地図のことですが、ちょっとおもしろいことを見つけました。というか、あまりおもしろくもありませんが。
中平龍二郎著「ホントに歩く大山街道」に従うと、不動滝の辺りの道は、旧大山街道を進んでいるようなのですが、明治時代の地図に重ねると、緑色の長方形で囲った辺りがずれていることが分かります。明治時代の地図では、測量誤差、座標変換、図法の変換など理由はいくつか考えられますが、現在の地図とのズレが若干あるため、実は今まで使った地図でも少しずつ補正しながらルートを重ねていました。しかし今回のズレは左右に50mほどのズレで、結構大きいため、今回は補正せずにそのまま重ねてあります。「今昔マップ3」で時代を追って比較すると、明治時代から昭和21年の地図までは、現在の地図に対して道も等高線も同様なズレがあり、昭和41年の地図になってようやく、現在の地図と同じ位置になっていました。土地の造成などにより道が変わったのではないか、という疑問については、この道の東側(丘になっている部分)は、昭和51年の地図では広葉樹林、針葉樹林、荒れ地になっており、昭和60年の地図で初めて土地の造成が始まっています。造成でもない限り、道路、山肌の大規模な変更はないと思われますので、昭和21年までは、誤差のある古いデータを使っており、その後新しいデータに変更したものと思われます。
さて、その後、道なりに早渕川に沿って進むと庚申堂がありました⑩。
そのいわれです(AFさん撮影)。
その少し西側に、荏田宿の案内板が新しく作られていました⑪。
集まってワイワイやっている人達の前と後ろです(右はNさん撮影)。金網の向こうの人達。
この案内板の地図の右下に、渡辺崋山が枡屋(16番)に泊まったことが書かれています。
渡辺崋山の遊相日記には、荏田宿に泊まったときの様子が書かれています。下の絵は、華山が日記に走り書きした桝屋の様子です。
下の写真は、真福寺の山門と本堂です⑫。真福寺は昔は荏田上宿にあったのですが大正時代に現在地に移ったとのことです。真福寺には絵馬が多数奉納され、現在も多く残っており、真福寺本堂と横浜市歴史博物館に保存されているそうです。
下は、荏田宿の常夜灯です⑬(右下以外はIさん撮影)。
荏田宿を過ぎ江田駅に近づいたところに庚申供養塔があります⑭。「ホントに歩く大山街道」には、見落とすかもしれない、と書いてあるのですが、本当に見落としそうでした。右の写真はIさん撮影。
江田駅の近くに地藏堂があります⑮。これは、江戸中期の作だそうです。
今日のルートは江田駅で終了です。またまた例によって、ビールで乾杯しお昼を食べて解散しました。
怪人230号
最近、川崎と横浜の市境辺りまで散歩に行きました、市境の横浜側に都筑ミカン園、があり、結構安くてうまい。皆さんに紹介できなくて残念。また行くチャンスがあれば、試食してみて下さい。ミカンははセンター北駅の近くの農協でも扱っているとのことです。