どっこいしょっと街歩き

健康のために歩きましょう。

大山道, 横浜・川崎

大山街道歩き7 荏田~長津田(2016/10/27)

今回は、東急田園都市線の江田駅から長津田駅まで歩きました(2016年10月27日)。歩いた大山街道は下の地図のとおりです。「今昔マップ3」を使い、オープンストリートマップと明治時代後半の地図にコースを重ねました。赤色の破線は旧大山街道に最も近くかつ現在歩ける道で、緑色の破線は一部分ですが江戸時代の推定ルートです。

明治時代の地図で見ますと、赤色の破線が当時の道からかなり外れており、明治時代には既に変わっていた部分、昭和以降の宅地造成で変わった部分等の見当がつきます。

mapohyamakaidoichigaomapohyamakaidoichigao0

江田駅を出て、しばらく東急田園都市線に沿ってゆるい坂を進みます①。

dscn2462

田園都市線と離れて少し進むと地藏堂があります②。階段の下には庚申塔などが並んでおり、その横の階段を上がると地藏堂です。

地藏堂の下で記念写真です(Nさん撮影)。

ichigaojizodo

更に西に向かうと昔の旅籠綿屋の佇まいをよく残している家がありました③。

dscn2468

お住いの方がいらっしゃいますので、横目で見ながら先へ進みますと、谷本川(やもとがわ 鶴見川のこと)に架かる川間橋(かわまばし)に出ます④。川間橋は、昔はここから50m程下流(上の地図の緑色の破線が旧大山街道)にあったようで、別名三文橋といったそうです。江戸時代末期に川間吉兵衛という人が私費で橋を架け、渡り賃を三文をとったことによるらしいのです。渡辺崋山の遊相日記(国立国会図書館デジタルコレクション)には、「矢元(谷本のこと)という所に出づ。橋あり。銭とりて渡す。もののふはあづからず」とあります。これだけですが、要は、三文払おうとしたらお侍様は結構、といった、ということのようです。

dscn2470

この三文橋がどんな橋だったかは、Nさんが溝口宿の大山小径で撮った下の写真から分かります。これは、葛飾北斎の「鎌倉 江ノ島 大山 新板往来双六(元はカラー)」の一コマです。なお、左下のタイルが逆さまに嵌められているのはご愛嬌ということで。。。

ohyamakaidosammonbashi

川間橋の西に一里榎があります⑤。一里榎というのは、一里塚の塚(盛り土)の代わりに榎を植えたもののようです。この一里榎は樹齢600年以上で、火災にあったときにできた空洞が、右の写真でははっきり見えます。

その先に医薬神社があります⑥。医薬神社は、東光寺というお寺の内にあった境内社だったもので、明治の神仏分離令で東光寺は廃され医薬神社となった、ということのようです。神社の前には、道祖神などが並んでいます。

そこから、藤が丘駅、青葉台駅、田奈駅の近くを通り過ぎますが、この辺りは、宅地開発と国道246号線(厚木街道)の建設により旧大山街道は殆ど残っていません。

下は本日の後半のルートです。明治時代は大山街道の古い道がある程度残っていたことと思われますが、下の明治時代の地図の右上の部分では、赤色の破線が当時の道からかなり外れていることが分かります。むしろ、国道246号線を歩くほうが旧大山街道に近い感じもします。が、歩く気にはなれません。

mapohyamakaidoshiratoridaimapohyamakaidoshiratoridai0

こどもの国への道と交差する辺りの墓地の中に、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります⑦。これは、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種とのことです。また、この筋違いの道に道祖神があります。下に2枚並べます。

p1060234dscn2482

ここから、国道246号線を渡るために歩行者用のトンネルが用意されています。反対側に出たところには可愛い絵が書かれています(Nさん撮影)。

これらの絵の辺りに、昔、恩田茶屋があったようです⑧。恩田茶屋については、渡辺崋山は遊相日記に、恩田茶屋で柿や栗を買って40文払った、と書き、また、下の絵を残しています。当時の茶屋はこのような様子だったのですね。

ondachaya

ここから少し南に、神鳥前川(しとどまえかわ)神社があります⑨。この神社の名前を読めるひとは少ないでしょう。地元で愛されている神社のようで、参拝客が絶えません。

dscn2486dscn2487

ここで、一休みし、バナナや飴をもらいエネルギー補給して、これからの長津田迄の道に備えました(Nさん撮影)。

また大山街道に戻りますが、ここから暫くは国道246号線を歩きます。

途中、恩田大橋で恩田川を渡ります⑩。この季節は野鳥が増えてきており、国道の橋の上からでも下のように何種類も見えました。左からヒドリガモ、コサギ、オオバンです。

国道を離れて200m程のところに、片町地藏堂があります⑪。地蔵の台石が道標になっています。

その先に、常夜灯、庚申塔、馬頭観音などからなる石造物群があります⑫。この辺りにあった遺跡を集めたようです。中平龍二郎著「ホントに歩く大山街道」の説明では、大山街道の北側にある、という記述になっていますが、現在は南側にあります。おそらく、道路拡張の際に移したのではないかと思われます。この辺りは、長津田宿の下宿です。上宿は後日訪れる予定です。

dscn2504

渡辺崋山の遊相日記には、ここ長津田宿での出来事が書かれています。それによると、旅立つ前に紹介されていた長津田宿の河原兎来(とらい)の家(たばこ等を売る店)に入っていくと、そこの主人兎来が華山とは気づかず、冷たい態度をしていたが、華山に同行していた弟子の悟庵(ごあん)が説明をすると、著名な画家で俳諧師である渡辺華山と分かり、急に丁重な態度になった、ということです。兎来はこの辺りでは著名人ですからこのようなこともあったのでしょう。その後、酒とさかな、食事のもてなしが始まりましたが、華山は、蕎麦はまずかったが麦飯はよかった、みたいな、失礼なことを書き残しています。しかしその後いろいろな人が訪ねてきたり、話を聞いたりして有意義だったようです。下は、兎来の店の様子の走り書きです。

torai

なお、兎来の店は、この石造物群の辺りにあったのではないかと思われます。

その後、大林寺に行きました⑬。下は、山門です。

dscn2509

大林寺境内には横浜市内では最大という板碑(いたび)があります。板碑とは、関東でよく見る、供養塔として使われる石碑で、鎌倉時代から室町初期の限られた時期にみられるものだそうです。下は、本堂と板碑です。

大林寺にはこの辺りの領主であった岡野家の墓地があります(I氏の後日の撮影)。

%e5%b2%a1%e9%87%8e%e5%ae%b6%e6%ad%b4%e4%bb%a3%e3%81%ae%e5%a2%93%e5%a4%a7%e6%9e%97%e5%af%ba1161105_p1060279

大林寺の近くにお七稲荷があります⑭。下の写真です。お七とは、放火の罪で処刑された八百屋お七のことですが、お七稲荷が何故ここにあるのか、ということについては、いくつかの説があるようです。旗本であった岡野家が刑事事件に関係する職務にあったことに関連する、というのが納得し易い説かもしれません。

DSCN2513.JPG

今日の歩きはここまでとし、これが楽しみで歩いた、お約束のビールで乾杯し、お昼を食べて解散しました。

2 コメント

  1. 大山歩きをすると色々なことに興味を持ちます。今回は荏田のボケモン調査です。現代では江田駅は田園都市線で最も冴えない駅に見えますが、荏田はかつてこの付近の中心地として栄えた街です。江戸時代は大山街道の宿場町として栄えたのは前号で紹介いただいた通りですが、その前鎌倉時代には鎌倉街道中道が通りまた荏田氏という武将が荏田城を構えていました。更にその前には都筑郡衙(つづきぐんが)が置かれていた場所です。その場所は今回の出発してすぐの246号線脇を歩いた反対側の東名高速道路の下にあったということです。郡衙とは勿論今回初めて知ったことですが、律令制度のもと、都筑郡の米集めのための役人の事務所(住まい)ということで、この地方の中心地だったのだと思います。即ち聖徳太子の昔から栄えていたいたとのことです。江田近辺で何となく感じる古さはこのためだったのでしょう。ここに国道246号線ができ、更に東名高速が通り、田園都市線が走り、これらが一点に集中し街を分断したのが発展を阻害した要因の様に見えます。荏田を東急が勝手に江田に代えたのも良かったのか悪かったのか??

    • 江田駅の近くに郡衙跡があったのですね。ちょっと足を伸ばしてもよかったのかな、と思いますが、そこに寄った場合は、最後がきつかったかもしれませんね。

コメントを残す

Theme by Anders Norén

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。