二子新地から溝の口まで大山街道を歩いてきました(2016年7月20日)。
歩いたところを下の地図に示します。現在の地図(オープンストリートマップ使用)と明治時代後半の頃の地図(「今昔マップon the web」使用)があります。
赤色の破線は、現在歩ける道で旧大山街道にできるだけ近いルートを表しています。オレンジ色の破線は旧大山街道から少し外れますが寄り道したルートです。①~は下の写真の説明に対応しています。
この日は、田園都市線二子新地駅で集合し、旧大山街道に出て、下の写真のように西に向かい歩き始めました(AFさん撮影)。当日歩いた範囲は、往時の二子宿(ふたこじゅく)から溝口宿(みぞのくちじゅく 昔は「溝口」と書いたらしい)です。
二子二丁目公園①に大貫病院跡がありました。ここは岡本太郎の生家で、母親の岡本かの子の実家でした。
その斜め向かいには光明寺があります②。1602年に開かれた、浄土真宗のお寺だそうです。下の写真には門柱と山門、奥に本堂がチラッと見えています。
本堂です。
更に歩いていくと、高津図書館の庭③に、国木田独歩の碑があります。独歩の小説「忘れえぬ人々」の舞台となった溝口の旅籠にちなむのだそうです。
更に府中街道を越えて先に進むと、大山小径という小公園がありました④。大山街道にちなんだパネルが多数地面に埋め込まれています。下の写真の上段右上の赤坂御門から始まり各所のパネルを見ながら進むと、最後に上段右下の大山の大型パネルがあり、あっというまに大山に到達します。これは楽でいい。
その向かいには江戸時代に創業の薬屋さん「灰吹屋」があります⑤(AFさん撮影)。
その先に「大山街道ふるさと館」がありました⑥(AFさん撮影)。高津町役場だった建物で、現在は、大山街道に関するいろいろな展示がされています。
大山詣でのときに担いで歩いた大太刀(おおだち)が飾ってありました。
大山街道ふるさと館の左隣は、陶芸家濱田庄司の生家だったのだそうです。
その先の二ヶ領用水(にかりょうようすい)と交わるところに大石橋があります⑦。二ヶ領用水とは、江戸時代初期に灌漑用に掘られた川です。
大石橋から上の地図の黄色い線に沿って北上し、円筒分水に寄ってきました⑧。円筒分水とは、そもそもは、江戸時代初期に多摩川の水を引き、耕地面積に応じて4つに分けて水を流したものです。しかし、分水量の争いが絶えず、昭和16年にサイフォンの原理を利用して作り直されたのが現在の円筒分水です。
下は、武陽玉川八景之図(川崎図書館)です。中央の山(七面山)の少し右下に橋のような「分量樋」が見えます。これが元の形だったのだろうと想像されます。なお、図の下を横に走っている道は大山街道です。
大山街道に戻り再び西に向かうとすぐに溝口神社があります⑨。
下は本殿です。祭神は、もとは赤城大明神だったのですがその後、天照大神にした、とのことです。
その横に、宗隆寺(そうりゅうじ)があります⑩。もとは天台宗でしたが、現在は日蓮宗です。溝口神社の別当寺でした。
これは本堂です。
宗隆寺には、陶芸家で日本民藝館の第二代館長であった濱田庄司の墓があります。下の写真の説明板には、濱田庄司の経歴と墓が当寺にあることが書かれています。左の碑は、濱田庄司の書で、「昨日在庵 今日不在 明日他行」と彫られています。なお、濱田庄司の墓はここではなく本堂の横奥の墓地にあります。
今日の最後のポイント栄橋(さかえばし)です⑪。昔、この辺りには平瀬川が流れていました。平瀬川は度々洪水被害を出していたため、上で書いた円筒分水の側に水路を変えられており、今ここに川は見あたりません。が、旧栄橋の親柱石が置かれています。
当日は、ここで大山街道歩きを終わりとし、溝の口駅周辺でビールを楽しみ解散しました。
電気工事のおじいさん
大山街道ふるさと館で【大山街道と溝口・二子村】という資料35ページを買ったところ、資料には溝口・二子村は1669年継立村、1827年寄場組合村の親村になったそうです。また明治初年これら大山街道の継立を廃止し川崎宿の助郷になるよう命ぜられ反対運動したそうです。どうなったか結果は
書いてありません。なお、下鶴間公所(ぐぞ)の名主古木家の古文書研究会に先日参加したところ、下鶴間は戸塚宿の助郷で、各種回覧文書(治安含む)も戸塚宿から鎌倉街道沿いに回ってくるとのことでした。
arukoyo
下鶴間宿が助郷だった、ということは、大山街道の継立村であり、かつ、東海道の助郷だった、ということでしょうか。もしそうなら、すごい負担だったでしょうね。それとも、時代的にずれがあるのですかね。
怪人230号
甲斐小泉に三分一湧き水というのがあります。武田信玄が地域間での無用の争いを避けるために1/3づつ配るために水平線上のあふれ料を調整して湧き水を配ったとのことです。円筒分水と同じような発想です。昔から何処でも水争いは生死を掛けた争いだったのでしょうね。
arukoyo
水争いを解決するため、ハード、ソフト(設備、話し合い等)のあらゆる手段を講じたのでしょうね。