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大山道, 横浜・川崎

大山街道歩き8 長津田~鶴間(2016/12/22)

今回は、田園都市線長津田駅で集合し、小田急江の島線鶴間駅まで歩きました(2016年12月22日)。

上の写真は、別の天気の良い日に、田園都市線すずかけ台駅の600m程南南東にある高尾山という丘で撮った写真です。正面の富士山の左にある高い峰が大山です。大山街道を進むにつれ、大山が近づいてきました。また、アングルとしても大山と富士山の間隔が狭くなってきており、この後、富士山は大山の後ろ側にまわります。なお、右端にある一番高く見える峰が丹沢山かと思われます。

前回辺りまでは宅地開発などで昔の大山街道が消えているところも多かったのですが、この辺りからは、国道246号線(厚木街道)で壊されている所以外は比較的昔の道が残っていることが多くなるようです。

下は、今回訪れたところを示す一枚目の新旧地図です。今昔マップ3を使い、オープンストリートマップと明治後期の地図を表示しています。赤い破線は旧大山街道に近い現在の道、丸数字は訪れた所です。

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長津田駅から歩き始め、先ず、地元で人気の王子神社へ行きました①。創建は、江戸初期の初代領主岡野房恒、とのことです。下の写真は、鳥居です。

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下は、二の鳥居と本殿です。

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その後、下の写真のように、国道246号線の向こう側に見える福泉寺を訪れました②。

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福泉寺は古義真言宗で、上に書いた王子神社を勧請した時に、初代領主岡野房恒が福泉寺を別当として開基したのだそうです。

下は、福泉寺の境内の様子です。江戸のテーマパークを思わせるアイテムがいろいろと置いてあります。といっても、江戸時代からあったのはどのアイテムか、は確認していませんが。。。

下はNさん撮影です。

お地蔵さんが熱心に観音様にボケ封じの願を掛けています(Nさん撮影)。

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が、実はNさんにポーズを強いられていたようです。

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国道246号線を渡り逆戻りし、今度は、大石神社に行きました③。大石神社の御神体は楕円形の自然石なのだそうです。また、在原業平が祭神との言い伝えもあるようです。

下は、大石神社の一の鳥居、二の鳥居、本殿です。

私たちは、一の鳥居をくぐらず、この東側にある参道を上り、常夜灯その他を巡りました(Nさん撮影)。長津田宿には、こちら上宿の常夜灯と前回訪れた下宿の常夜灯と二基あります。

大石神社の北にある、御野立(おのたち)所の碑を見てきました④(Iさん撮影)。下の左は「皇太子御野立之跡」とあり、大正10年、昭和天皇が陸軍の演習をご覧になったときの記念塔です。たまたま散歩をしていた人が、教えてくれたのですが、この塔は一度損壊し作り直したのだそうで、その時、壊れた部分が放置されてしまい、それが右の写真に見える草むらの石なのだ、ということです。後の天皇に関わる碑のかけらを捨てておくことがあるのだろうか、と思いながらお話を聞いていました。

とはいえ、Iさんの撮った別の写真(下)をよく見ると、「皇太子」と彫ってあるように見えますので、そのお話は本当かもしれません。

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その後、長津田小学校脇にある旧大山街道を進みました⑤。昔はこうだったのかなと思わせる雰囲気の道です。

ここまで長津田宿周辺をさまよっていたのですが、この先は、暫く国道246号線に沿って進みます。

下は、国道を少し進んだところで、田園都市線すずかけ台駅方向をみている写真です⑥。

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今日の二組目の地図です。

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下は国道に掛かる陸橋で撮った写真です⑦(Nさん撮影)。

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この日は曇り時々雨で展望には恵まれませんでしたが、天気がよければ、このページのトップに載せた写真のように大山と富士山が見えたはずです。トップの写真は、この陸橋の少し南東で、上の地図のオレンジ色の△の辺りで撮ったものです。同じニトリの看板が両方の写真に見えています。

下は、江戸時代中期に建てられたという道祖神(左側)と地藏堂です⑧。

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地藏堂の中は下のようになっています(Nさん撮影)。

下は大ヶ谷(おおがやと)庚申塔です⑨。正面に鶴間と彫られているのだそうですが、読めませんでした。

なお、上の庚申塔の北側500m程のところにグランベリーモールがあります。

次は日枝神社(熊野神社)です⑩。

下は円成寺です⑪。

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今日の三組目の地図です。

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五貫目(ごかんめ)道祖神です⑫(Nさん撮影)。五貫目とはここの地名です。

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この辺りから、しばらく国道246号線を離れます。下の境川を渡ると下鶴間宿です(Nさん撮影)。境川は相模原市、町田市、藤沢市等を流れ相模湾に注いでおり、この辺りでは、境川は武蔵の国と相模の国の境になっていました。今は、この上流では東京都(町田市)と神奈川県の県境で、ここから下流では、横浜市と大和市(更に下流では藤沢市)の市境になります。

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境川を渡ると観音寺があります⑬。高野山真言宗で、開基は不詳とのことです。

下は観音寺の門柱と本堂です。

本堂の庇で雨宿りです。

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下鶴間宿には大山阿夫利(あふり)神社の分霊社があります⑭。

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上の写真の左側には、新田義貞が鎌倉幕府を攻めたときの進軍ルートの地図があり、その奥に新田義貞の像があります(AFさん撮影)。義貞は1333年後醍醐天皇/護良(もりよし)親王から綸旨を賜り、新田荘(群馬県太田市)にて旗揚げし、途中、幕府側の軍を打ち破りながら鎌倉へ進軍し、北条氏を滅ぼしています。地図上で破線は進軍ルート、実線は鎌倉古道です。

神社の前に道標があり、正面は「相州鶴間村宿」、右面には「是より東江戸十里」、左面には「是より西大山七里」とあります(Iさん撮影)。

下は、下鶴間ふるさと館です⑮。古い民家を復元したものだそうです。下の写真は母屋で、手前は高札場です。三枚の高札が復元されています。また、母屋の中は展示場になっています。

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下は、展示されていた、下鶴間宿の明治初期の写真です。

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下のような下鶴間宿のジオラマが展示されていました(Iさん撮影)。

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下は下鶴間ふるさと館での写真です(Nさん撮影)。

鶴間ふるさと館から少し西に行くと、下鶴間不動尊と鶴林寺があります⑯。

下の写真の、二体の明王が登っている階段の右にある碑らしきものは、実は、半分壊れている不動明王像なのだそうです。

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階段を上るとお堂があり、中に不動明王が置かれています。

その横に鶴林寺があります。鶴林寺は浄土宗で、1569年の創建だそうです。DSCN3045.jpg

鶴林寺から更に西へ進みます。

下は、まんじゅう屋跡です⑰。ここは、旅籠兼まんじゅう屋だったようです。白い車の手前(写真中央)に説明板があります。又、右の電柱の脇に道標があります。

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下は、渡辺崋山の遊相日記の中のまんじゅう屋の挿絵です。華山は「角屋伊兵衛(俗にまんじゅう屋と云う)の家に一泊し(432銭)、・・・酒も飯もうまかった」と書いています。挿絵の説明として「まんちう屋の家」、「鶴間武相の堺川を高座川と云う即相の高座郡なればなり」とあります。なお、高座の読みについて、現在は「こうざ」と呼びますが、江戸時代は「たかくら」だったと伝わっています。しかし、華山は「たから」と仮名を振っています。華山が間違えたのか、地元の人は当地を「たから」と呼んでいたのか、どちらかでしょう。また、上の説明板ではまんじゅう屋の主は土屋伊兵衛となっていますので、華山が間違えて書いたのかもしれません。

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下の写真はまんじゅう屋跡の前の電柱の脇にあった道標です(Iさん撮影)。

その先に坂上厄除け地蔵があります⑱(Nさん撮影)。

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下は山王神社です⑲。

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上の写真の左側に道標があります(Nさん撮影)。ここは瀧山道(八王子の滝山城へ至る道)と大山道(矢倉沢往還)の交点でした。その右にあるのは庚申塔と青面金剛立像です。

下は、小田急江の島線鶴間駅前にある矢倉沢往還の説明碑です⑳(Iさん撮影)。この道路は、旧国道246号線で、現在の246号線は鶴間をバイパスしています。

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この日の大山街道歩きはここで終わりとしました。

この後、鶴間駅近くのスーパーで食料と飲み物を調達し、TNさんの別宅に上がりこんで忘年会をし、大いに盛り上がりました。TNさん、ありがとうございました。

1 コメント

  1. ボケモン230号

    新田義貞の進軍ルートは興味深い。この立て看板は境側の相模側に立っていましたが、物の本によると鎌倉から武蔵府中への往来である鎌倉街道は境川の江戸側を通っていたようです。(この地図でそうなっているかは正確には読み取れませんが?) 新田義貞は通常の鎌倉街道を避けて川の対岸を進軍したということなのでしょう。いずれにしても鶴間の辺りは江戸方面から大山を通り更に東海方面へい至る東西の街道と、鎌倉から府中を抜けて東北方面に至る街道とのが交差する交通の要点だったようですね。また南北方面に鎌倉古道を歩く機会がありましたらもう少し研究して見たいですね。

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