今回は、小田急江ノ島線鶴間駅で集合し、小田急小田原線・相鉄線の海老名駅まで歩きました(2017年1月26日)。
下は、今回訪れたところを示す一組目の新旧地図です。今昔マップ3を使い、オープンストリートマップと明治後期の地図を表示しています。赤い破線は旧大山街道に近い現在の道、丸数字は訪れた所です。
上の地図を見ると、旧大山街道は明治時代もそのままで、更に現在もほぼそのまま使われていることが分かります。又、地図記号から、周りはほとんど桑畑(大文字のYの下が右に延びている地図記号)や林・畑だったようです。
渡辺崋山の遊相日記には「鶴間を出づ。この辺りも又桑柘(そうしゃ 桑のこと)多し」と書かれています。又、「田園の間に出れば雨降山(大山のこと)蒼翠(そうすい 青緑のこと)手に取るばかり、・・」とあり、大山も近くに見えることを書いています。トップの写真は鶴間駅を出て少し歩いたところでの写真です(Iさん撮影)。
鶴間駅を出て西へ向い歩き始めたところ、昔の職場の先輩ご夫妻が待っていて下さるというサプライズがありました。記念撮影をし(Nさんのカメラ)、暫くお話をしながら一緒に歩きました。差し入れまで頂いてしまいました。
先輩夫妻と別れたあと、更に進んだ所に西鶴寺がありました①(Nさん撮影)。TNさんの説明によると、昭和の初期に小田急線鶴間駅周辺の住宅地開発が進み、移り住んで来た人達の菩提寺となったお寺だそうです。
この後、ほぼ真っすぐな道を進みます。下は、大山街道の石碑です②。
更に、下の写真のような大山の姿を見ながらひたすら進みます(Nさん撮影)。この辺りでは富士山は大山の陰に隠れていて見えません。
途中、コンビニでコーヒーを買い一休みです(Nさん撮影)。
下の地図は本日の後半に歩いたところです。明治時代の地図をみると、地図の右半分はほとんど桑畑だったようです。
大山街道から300m程北東に離れたところに富士塚があり、そこに庚申塔があります③(Iさん撮影)。
この富士塚は、現在はほんの少し土が盛っているだけですが、「富士塚」というからには昔はもう少し高くなっていたのでしょう。下は方向を変え庚申塔を撮ったものです。
この辺りで見た大山です(Nさん撮影)。富士山は未だ大山の陰です。
大山街道に戻り少し先へ進むと不動明王と石造物群があります④。大きなイチョウが目印です(Nさん撮影)。
そこには、なんだかいろいろありました。
更に進むと、赤坂という地に、道標と「渡辺崋山ゆかりの道」案内版があります⑤。
下は道標を左右から撮っています(Iさん撮影)。
下は華山の案内板です(Nさん撮影)。ここから大山街道を離れ1km半ほど南へ進むと(下の写真の左の道を進むと)お銀の墓があります。
そのときお銀は40代後半ですが、遊相日記によると、華山がお銀の住む家と思しき家に入っていくと、侍姿の華山に驚き、「頭に手拭いをいただきて、老いさらばいたる女」が、どちらからおいでですか、と恐るおそる訪ねた、と書いています。上の説明板に「あこがれのお銀さま」と書いているとおり、記憶と現実のギャップに、本当にこの人がお銀さまだろうかと逡巡した様子が遊相日記から読み取れます。その後、華山はお銀さまやその夫や父、子供たちと、夕方まで積もる話を続けたそうです。
さて、話は戻ります。その先、望地(もうち)と呼ばれる辺りで旧大山街道はおおきくくねっており、現在の県道厚木街道に分断されています。この辺りは見晴がよく、大山がよく見えます⑥。下の写真では、大山があり、少し左に富士山の頂上が見えます。今までは、富士山は大山に遮られて見えていませんでしたが、歩くに従って富士山が少しづつ大山の左に回り、ここで姿を表しました(AFさん撮影)。
下は望地の馬頭観音です⑥。
その少し先にある道祖神です⑦。
厚木街道に戻り目久尻川を越えたところで右に進むと川端に石橋供養塔があります⑧。江戸時代、それまで木の橋が何度も洪水で流されていたため、目久尻川に石橋を掛けようと尽力した重田七三郎という人物を顕彰した石碑です。
人生の末路を歩む二人です(Nさん撮影)。
下は、史跡逆川(さかさがわ)碑とその説明碑です⑨。逆川というのは、説明碑によると、大化の改新の頃作られ、目久尻川から分水し、相模国分寺と相模国分尼寺の中間を流れ、相模川東側に注いでいた運河です。しかし、平安中期にはもう使われなくなっていたようです。
下はその先にある道標です⑩。
下は、相模国の国分寺跡です⑪。奈良時代、聖武天皇の詔により創建されました。
上の写真の左端に見える温故館⑫は歴史博物館で、旧国分寺に関わる展示もあり、下の写真のような旧国分寺のミニチュアが置かれています(AFさん撮影)。左が七重塔、右が金堂で、手前が中門、奥が講堂です。
下は七重塔跡です。1200年余前、ここに七重塔が燦然と輝いていたことになります。
七重塔の礎石です(AFさん撮影)。
下は金堂跡です。
下は温故館の前です⑫(Nさん撮影)。
温故館では、説明員の方からお話を伺いました。それによると、国分寺は奈良時代に全国の各国に作られ、総本山は大和国の東大寺(華厳宗)でした。相模国ではここ海老名の地に国分尼寺とともに創建されました。国分寺は、教育、先進産業の各地域での担い手としての役割をある程度果たしたようです。しかし、律令体制の崩壊とともに、南都六宗の一つである華厳宗では各国の国分寺の経営が困難になり荒れていきます。その後、国分寺は、真言宗、天台宗等に宗派を変え、また、薬師如来など人々の信仰を得やすい現世利益のある仏様を本尊として新たな国分寺として再建されることが多かったようです。ここ海老名にも、旧国分寺の近くに、旧国分寺と旧国分尼寺が統合する形で新しい国分寺(真言宗)が建てられ、今に続いています。
下は、県の天然記念物の大欅です⑬。樹齢は600年に近いようです。
下は、現在の国分寺です⑭(Iさん撮影)。真言宗で、本尊は薬師如来です。旧国分寺とその北にある旧国分尼寺を統合する形で建てられたとのことです。
海老名駅前のモール、ビナウォークに、旧国分寺の七重塔の1/3サイズのミニチュアがあります⑮(Iさん撮影)。
今日はここでお終いとしました。いつものようにビールで乾杯し美味しいお昼を頂きました。
明石文雄
日本に仏教が伝来したのは538年(異説もある様ですが?)でそれから約100年後の大化の改新のころには国分寺が全国にできて全国に広まっていったようです。日本にはその前から神様があり神社はあったわけですが、なぜそれを差し置いて仏教が広まったんでしょうか?神より仏の方が一般受けするということですかね? また、今でも神社は残り神への崇拝信仰も続いています何故ですかね? 日本人は欲張りで両方にお願い事をしたいからですかね?
Iさんの行ったという講演会「神仏分離と神奈川」などを聞くと分かるかもしれませんが、サボっていて行かないでおります。
arukoyo
仏教と神様の関係の解釈は難しそうですね。国分寺が造られた頃の仏教についていうと、学問としての仏教、鎮護国家のための仏教という性格が強かったようで、当時は、神様は、仏教を守るもの、あるいは仏様が仮にこの世に現れたもの(本地垂迹)という考え方が強くなりだした頃のようですね。