江戸城外濠の一部を歩いてきました(2017年3月13日)。数寄屋橋公園からスタートし、銀座、大手町、日本橋を経由し神田橋までのルートです。上の絵は広重の「日本橋真景并びに魚市全景」です。
下の地図は、この日歩いたルートの前半で、当日訪ねた所を丸数字で表しています(オープンストリートマップを利用)。又、紫色の太い破線でお濠を示していますが、すべてのお濠を書き込んでいるわけではありません。
先ず、数寄屋橋公園に行きました①(Iさん撮影)。この公園の前の通りはお濠(上の地図の紫色の破線)だったところです。今は、高速道路が上を走っています。
ここに、下の写真の数寄屋橋の碑があります。表側には、昔の「君の名は」の作者菊田一夫の書があります。
数寄屋橋の碑の裏側のアップです。
上の説明板に書かれているように、昔はここに数寄屋橋があったのだそうですが、今はまったくその雰囲気はありません。ただ、近くの交差点に、明治初期の数寄屋橋門の写真が貼ってあります②。
下は、写真部分のアップです(Iさん撮影)。
そこから北に向かうと、有楽町駅前に大岡越前で有名な南町奉行所の跡の碑があります③。
下は南町奉行所跡の説明板です(Iさん撮影)。
有楽町駅前の地下には、奉行跡から出土した穴蔵(地下室?)を縦にして展示してありました。
下は、穴蔵の説明板のアップです。これには、「大岡越前守様御屋敷ニテ」と書かれた木札(下の写真の右側)が出てきたことが書かれています。
有楽町駅前から西へ向かい、銀座発祥の地に行きました④。下はその碑です。
ここ銀座の辺りは昔の区割りがほぼそのまま残っており、この中央通りも昔と同じ道幅なのだそうです。
次に、中央通りを北上し京橋に行きました⑤。京橋の名は、日本橋を発って東海道を進むときに、「京へ通じる最初の橋」というのが由来だそうです。昔は、現在の首都高の下にお濠(上の地図の水色の太い破線)がありました。
下は京橋の親柱と記念碑です。
下は上の写真の中央にある経綸の碑のアップです。
中央通りの反対側を見ると、向かいに、親柱と同じ形の屋根を持つ交番があります。
京橋の周りで撮りました(Iさん撮影)。
京橋のカス塔です(AFさん撮影)。
下の絵は、広重による名所江戸百景「京橋竹がし」です。京橋の北東側の岸には竹問屋が並んでいたため竹河岸と呼ばれていたようです。満月の方向からも、竹河岸がどちらにあったか分かります。
次に、京橋から西へ向かいました。下は、鍛冶橋跡の説明板です⑥。
下は、説明板のアップです。
次に丸の内ビルに行きました⑦。下は、5階に上がり撮った東京駅の写真です。
次に一階北側に行き、旧丸ビルで使われた松杭が保存されているので、それを見てきました。松杭とは、軟弱な地盤に建設する際、杭を打ち込み、その上に構造物の載せるために使ったものです。下の写真で分かるように、一本の杭が水平に床下に置かれており、もう一本(レプリカ)が縦に飾られています。
杭には年代が彫られており、一体なんだろうと皆で不思議に思っていたのですが、TNさんが調べて教えてくれました。床の杭は実際に使われていた松杭で、それには、丸ビルができた1923年から2000年再築まで年代を刻み、直立したブロンズの杭は未来の年代を刻んだ時間と記憶をテーマにしたアート作品だそうです。
又、このスペースには三連アーチがあります。下はその一つです(Nさん撮影)。旧丸ビルの象徴的な外観が残っています。
下は、松杭と三連アーチの説明です。
下は、丸ビルにある中古江戸図のガラス絵です(Iさん撮影)。江戸の様子が書かれています。
下は、後半の地図です。昔のお濠は太い破線で表していますが、すべてのお濠を書き込んでいるわけではありません。
上の地図で、大手門から東にのびる永代通りを斜めに横切る濠(水色の太い破線)は道三堀です。
下は、道三堀に架かっていた道三橋の跡です⑧。
下は、道三橋跡の説明板のアップです。
次に北町奉行所跡に行きました⑨。
その後、日本橋に向かいました。日本橋は日本橋川(上の地図の緑色の太い破線)に架かる、主要道路の起点となる橋です。下は、広重作「日本橋朝之景」です。
又、下の絵は江戸名所図会の挿絵です。手前側が魚河岸です。
さて現在に戻ります。下は、日本橋の碑です⑩(Iさん撮影)。この位置は日本橋川の右岸上流側(橋の南西側)です。
左岸側に行くと、下の道路元標があります。
下流側に渡ると魚市場跡の碑があります。魚河岸があったとのことです。
下は、同じ場所でAFさんが上から撮った写真です。
日本橋魚河岸跡の説明板のアップです。
下の絵は、広重作の「日本橋真景并びに魚市全景」です。手前側が魚河岸です。
下は、江戸名所図会の魚市の図です。
日本橋とその周囲の風景です(Nさん撮影)。
次に、日本橋の西にある一石橋に行きました。下の絵は、国直による「日本橋より一石橋を見る図」です。かなりデフォルメされているようですね。
下は、一石橋の親柱と迷い子知らせ碑(親柱の左側)です。上の絵は橋の東側から見たアングルですが、下の写真は逆方向から(富士山の背にして)撮っています。
下は、一石橋の親柱の説明板のアップです。
親柱の横にある迷い子知らせ石碑です(Iさん撮影)。
次に行った常盤橋の枡形跡⑫は、現在改修中でした(Iさん撮影)。外堀通り側は工事用の壁があるため、覗き見ることはできませんでしたが、端の方に少しできていた隙間から撮りました。
その先の現在の鎌倉橋⑬の辺りに石垣が見えます(Iさん撮影)。なお、江戸時代に鎌倉橋はありませんでした。
日本橋川の右岸(大手町側)に作られた川端緑道の様子です⑭(Iさん撮影)。
神田橋の親柱です⑮(Nさん撮影)。
下は、神田橋の辺りでわずかに見える石垣です(Iさん撮影)。
神田橋の左岸下流側(北東)にある物揚場跡です。
下は説明板のアップです。
今日の街歩きはここまでとし、ビールを飲みながらお昼にしました。
ボケモン230号
江戸という地名を少し探ってみました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8
元々隅田川の河口という意味で名前が付いた。平安後期に江戸太郎というと人が江戸という名前になって今の江戸城の辺りに居館を構えの地方を治めたのが始まり。江戸氏は没落し、その代わりに1400年代に太田道灌という人が江戸城を構えたのが今の江戸城の原型、その後100年前後に徳川家康がここを治めることになり、江戸全体を大都市に作り替えた。地名が先か、氏名が先かということに興味があり、調べたが江戸についてはこれは地名が先のようですね。江戸氏はその後も北見の近くに残ったということですが、江戸城とは殆ど関係ないと言えそうです。
小澤征爾の元妻ピアニストの江戸京子がこの名を引き継いでいるという話があるが、真偽のほどは良く分からない。江戸という古い家柄ですが、そもそも江戸という名前は川の入口という意味ですからいろんなところにある地名のようです。そのどれかは中々わかりにくいということのようです。因みに我が家の近く横浜市都筑区に佐江戸という地名があるがこれは江戸への道すがらという意味で、川の入口では無いようです。つまらない話を長々と失礼しました。
arukoyo
「江戸」というのは地名が先なんですか。
地名の由来を調べるのは楽しそうですね。