今回は、海老名駅で集合し、小田急小田原線本厚木駅まで歩きました(2017年3月23日)。上の写真は、相模川を渡るあゆみ橋から大山を見たものです。

下は、今回訪れたところを示す一組目の新旧地図です。今昔マップ3を使い、オープンストリートマップと明治後期の地図を表示しています。赤い破線は旧大山街道に近い現在の道、丸数字は訪れた所です。

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海老名駅を出て大山街道(厚木街道)を西に進むと、海老名市の中央図書館があります①。

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ここに一大縄(いちおおなわ)という標識がありました(Iさん撮影)。具体的には、上の地図に見える約2Kmの直線の道が一大縄と呼ばれたようで、古代、中世の条里制に基づく区画の遺構だそうです。

そこから更に進むと、広い厚木街道から離れてすぐの所に庚申塔があります②(Nさん撮影)。

その少し北に総持院があります③。

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下は総持院の山門と本堂です。

総持院の境内はとても綺麗に整備されており、花や樹木に一つ一つ名札が付けられています。

以下に、境内の様子を紹介します。先ず、Tさんの撮影です。タイル状の部分を右クリックすると一枚づつ見られます。

次はNさん撮影です。

次はIさん撮影です。

総持院を出た後、有鹿(あるか)神社に行きました④。

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下は、本殿です。

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その後、海老名氏霊堂に寄りました⑤。道路から少し奥まった所にあります。海老名氏は、八王子を中心とした地域の有力武士団であった横山党の一族で、ここ海老名市の辺りを根拠地にしました。頼朝の鎌倉入りのときに御家人になっています。

霊堂の中には、宝篋印塔(ほうきょういんとう 墓塔・供養塔などに使われる)が置かれています(Nさん撮影)。

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そこから相模川に出て伊能忠敬渡河地を探しましたが、周りには伊能忠敬が来たことを示すものは無さそうでした。下は、その辺りの写真です⑥(Nさん撮影)。正面は目指す大山です。随分と近くなっています。

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さらに少し南下すると、下のような厚木の渡し場跡があります⑦(Iさん撮影)。渡し場跡を示すものは、下右の「爛漫の桜堤に渡船跡」と書いた碑があるだけです。

我々は、あゆみ橋を通り相模川を渡りました⑧。

下はあゆみ橋からみた大山です。

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あゆみ橋を越え、いよいよ厚木に入りました。

下は、厚木宿(相模川を渡った先)の新旧地図です。明治時代の地図で黒く塗られたところが厚木宿に当たるようです。

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相模川を渡り少し北に進んだところに、厚木の渡場と渡辺崋山来遊記念碑が置かれています⑨(Iさん撮影)。中央の大きな碑が華山の記念碑です。

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上の碑の辺りから北は厚木宿でした。厚木の商店街の店のシャッターには昔の風景が書かれています⑩。

渡辺崋山は遊相日記に厚木宿の街を走り書きしています。下の絵です。大山道の中央には「前堀」と呼ばれる流れがありました。相模川の支流である小鮎川から取った清流だったようです。しかし、明治になった頃には水が汚れ、その後、埋めてしまったということです。

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下は厚木神社です⑪。鳥居の下で集合写真です(Nさんのカメラ)。

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下は厚木神社の鳥居と拝殿です。厚木神社は、江戸時代以前は牛頭天王(ごずてんのう)と言われており、そのため、狛犬の前には「お天王様の地」と書かれた石柱があります。

下は厚木神社を裏側から見ています(Iさん撮影)。本殿がよく見えます。

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下は、厚木神社の相模川側にある厚木陣屋跡です(Iさん撮影)。この辺りは、烏山藩の領地だったようです。華山の遊相日記には、ここの住民が烏山藩の支配を嫌っていたことが書かれています。天領あるいは旗本の領地だったらよいのに、という愚痴です。

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渡辺崋山は、厚木宿では万年屋に泊まりました。厚木神社のすぐ南の歩道に渡辺崋山逗留碑があり、ここが万年屋跡ということになります。歩道側には「渡辺崋山逗留の地」と彫られており、車道側は「渡辺崋山由縁の地」となっています

ここ万年屋で、華山は地元の文化人を呼んで語り明かしています。集まったのは、「厚木六勝」を華山に紹介した斎藤鐘助、医者の唐沢蘭斎、遅れてお銀の夫清蔵などでした。この場に集った人の絵を華山は遊相日記に走り書きしています。金子勤著の「大山道今昔」には名前をいれた図がありますので、解像度は低いのですが、こちらを下に載せます(遊相日記では絵に名前が入っていません)。

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また、次の日もここ万年屋で、上に書いた文化人の他、地元の侠客で、厚木の南にある酒井村の村長彦八も参加し、藤沢に向かう華山と悟庵のための壮行会が開かれたようです。

さて、お話しを戻します。

更に南下し宝安寺に行きました⑫。下は、山門と本堂です。

下は最勝寺です⑬。

下は熊野神社です⑭。

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本殿です(Nさん撮影)。

境内入口に、「渡辺崋山厚木六勝図 熊林(ゆうりん)の暁鴉(ぎょうあ)」の碑があります。DSCN3357.JPG

木の柱には華山の名がありますが、石碑には華山の作ではなく、「たまの逢瀬も 夜が短くて にくい熊野の 明け鴉 橿家甘人(かしやのあまひと)」という都々逸が彫られています。なんじゃこりゃ、って感じですが、石碑は関係なくて、単にここが華山の熊林暁鴉の書かれた場所です、と言いたいだけのようです。

華山の描いた熊林暁鴉(熊野の森の暁の鴉の意味)の図については、解像度の良い絵が見つからなかったため、金子勤著の「大山道今昔」から借用しました(下の絵です)。華山はこの日、厚木六勝を巡り、ささっと6枚描いて厚木の文化人斎藤鐘助の家に置いてきたようです。

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熊野神社の次は知恩寺に行きました。下は知恩寺へ向かう道です⑮(Nさん撮影)。

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下は境内です(Nさん撮影)。

上左の写真の正面に見える本殿らしき建物には、上右の写真のように「知恩神社」と書かれていました。上左の写真の左に墓地が見えますが、そこには「知恩寺墓地」と書かれています。一体どちらが正しいのか、というと、明治の神仏分離令で知恩寺は廃寺となっていますので、現在は知恩神社と呼ぶのが正しいようです。

今日の後半の部分は江戸時代の厚木宿でした。金子勤著「大山道今昔」に、厚木宿の分かりやすい地図がありますので、下に掲げます。厚木宿の鳥瞰図に現在の小田急線を加えてあります。この地図を見ると、厚木宿は、厚木の渡船場から知恩寺の辺りまでだったことが分かります。また、四角で囲ったのが「厚木六勝」です。

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この日はここで終了とし、本厚木駅の近くでビールとランチを楽しみました。