江戸城外濠の一部をなす神田川の下流を歩いてきました(2017年5月8日)。東日本橋駅からスタートし、両国橋、柳橋から神田川を遡り御茶ノ水までのコースです。上の写真は柳橋から浅草橋方向を見た神田川です(Nさん撮影)。

下の地図は、この日訪ねた所を丸数字で表しています(オープンストリートマップを利用)。又、水色の太い破線で神田川を示しています。

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先ず、薬研堀(やげんぼり)不動院に行きました①。東日本橋駅の辺りからここまで、道路には幟がひらめいていました(Nさん撮影)。

下は薬研堀不動院の写真です。歴史についてはこちらを見て下さい。

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その後、両国橋へ行きました②(TNさんの撮影)。

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下はNさんの撮影です。

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下は両国広小路の碑です。江戸時代の始めここには橋がなかったのですが、明暦の大火(1657年)で隅田川を渡り逃げることができず大勢の犠牲者が出たため両国橋を架けたたこと、隅田川が武蔵国と下総国の境だったこと(その後、江戸川が境界となる)、火事の延焼防止のために設けた広場が広小路となったこと、などが書かれています。

下は、神田川が隅田川(昔は大川と呼ばれた)に流れ込んでいるところです。柳橋の上からNさんが撮影した写真で、向こうに見えるのが両国橋です。

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下は神田川の最初の橋、柳橋(やなぎばし)です③(AFさん撮影)。柳橋は街の名でもあり、江戸中期から花街として有名で、この橋の周りには船宿がたくさん並んでいたようで、今も名残があります。

下は、Nさんの撮影です。

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次は少し上流の浅草橋です⑤。

浅草橋には、浅草見附跡の碑、郡代屋敷跡の説明板等があります(Iさんの撮影)。

浅草橋の北東に篠塚稲荷神社があります④。

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下の写真は、更に上流の左衛門橋です⑥。

あらあら、赤信号で渡ってはいけませんよ(Nさん撮影)。

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上流に進むと見倉橋(みくらばし)があります⑦。

更に神田川を遡り、和泉橋(いずみばし)で折れて南へ向かい、お玉稲荷に向かう途中で、皆さん何かを熱心に見ています(Nさん撮影)。何を見ているのか、

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というと、お玉ヶ池と種痘所の説明板でした。

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もう少し進むとお玉稲荷です⑨。お玉稲荷は、二人の男性に求婚され、悩んだあげく池に身を投げた絶世の美女お玉さんを祀っており、ここにお玉ヶ池跡の碑もあります。お玉さんの詳しいことについてはこちらにも少し書いてあります。

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その更に南に、伝馬町(でんまちょう)牢獄屋敷跡があります⑩。伝馬町牢屋敷は、Wikipediaによると、二千坪を越す広い敷地があり、現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設だった、とのことです。

下の写真は大安楽寺境内です(TNさん撮影)。

その向かいに十思公園(じっしこうえん)があり、牢屋敷の説明板、江戸時代の時の鐘などがあります(Iさん撮影)。

そこから和泉橋に戻りました⑧。

下は、神田川の右岸(南側)には柳原土手(やなぎはらどて)があったことを示す説明板です。柳原土手の詳細はこちらに書きました。

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下は柳森神社です⑪。上の柳原土手の説明板の中にも書かれている神社です。

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柳森神社には、珍しい御衣黄桜(ぎょいこうざくら)があります(Iさん撮影)。この桜は、ソメイヨシノよりも2周間ほど遅く咲き、開花初期は黄色・緑色で、最盛期を過ぎると白い花びらの中央が赤みを増すのだそうです。残念なことに、訪れた時は既に散っていました。

鳥居の横のたぬきもユニークです(Nさん撮影)。

下は、万世橋(まんせいばし)です⑫。

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万世橋の横には、神田川と中央線に挟まる位置に、下の写真のようなレンガ作りの旧万世橋駅があります(Iさん撮影)。レンガ作りのドームの上がプラットホームになっていました。なお、万世橋駅は明治時代に造られたのですが、昭和時代に駅は廃止されました。

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下の写真(AFさん撮影)には、ドームの先に昌平橋(しょうへいばし)が見えていますが、江戸時代には昌平橋と手前の万世橋との間に筋違橋(すじかいばし)がありました。その時代に、万世橋はありませんでした。

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なお、筋違橋がなくなり、万世橋と昌平橋が現在の様になった経緯はかなり複雑です。

江戸時代には、筋違橋に接して筋違門があり、筋違門の内側(神田川の反対側)には筋違八ツ小路(すじかいやつこうじ)と呼ばれる広場がありました。その説明板が旧万世橋駅の南側にあります。下の写真です⑬(AFさん撮影)。御成道(おなりみち)、筋違橋、筋違八ツ小路等の江戸時代の状況についてはこちらを参照してください。

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旧万世橋駅は、下の写真のように、階段とプラットホームが整備されています(Nさん撮影)。

下はAFさん撮影です。

旧万世橋駅を見た後、Iさんがどうしても見たいと、あんこう鍋のお店を覗きに行きました(TNさん撮影)。

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さらにその後ろから撮っている写真です(Nさん撮影)。

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Iさんが入りたそうにしていたお店をもう一つ(Iさん撮影)。

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下は昌平橋です⑭(Nさん撮影)。昌平橋は、Wikipediaによると、1691年に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際に、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで命名したのだそうです。

昌平橋を渡り、神田明神(神田神社)に行きました⑮。下は、神田明神の境内マップです。

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5月11日から17日まで、神田明神の神田祭になっており、あちこちで準備が進められていました。下はそのポスターです(TNさん撮影)。

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下は、神田明神の鳥居です(TNさん撮影)。

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上の写真の正面に見えている随神門です(TNさん撮影)。

下は社殿です(Nさん撮影)。

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神田明神の由緒は下の通りです。

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随神門を入ってすぐ右側に山車が準備中でした(Nさん撮影)。

恵比寿様です(Iさん撮影)。

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だいこく様と国学発祥の地の碑です(AFさん撮影)。

神田明神には手入れの行き届いた境内末社が多数あります。

神田明神を出てその次は湯島聖堂に行きました⑯。下は、湯島聖堂内のマップです。地図の左側の西門から入りました。

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西門を入ってすぐの杏壇門(きょうだんもん)です(Nさんの撮影)。

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杏壇門を通して見える大成殿(たいせいでん)です(Iさん撮影)。昭和10年にコンクリート作りで再建されています。

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大成殿の横で、熱心に湯島聖堂の勉強中です(Nさん撮影)。

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下は、大成殿の屋根に置かれたシャチホコです。

下は入徳門(にゅうとくもん)で、1704年の建造です(Iさん撮影)。

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皆さん、孔子像と楷の木を見ています(Nさん撮影)。

下は仰高門(ぎょうこうもん)です(Iさんの撮影)。こちらが正門に当たります。

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下は、湯島聖堂の東側にある昌平坂です。

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湯島聖堂の南側にある相生坂です(Nさん撮影)。

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ところで、湯島聖堂とは何か、という疑問が湧いてきますが、湯島聖堂のHPでは以下のように説明されています。

「湯島聖堂は、もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690)、五代将軍綱吉がここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まり。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。

こののち、寛政9年(1797)十一代家斉のとき規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設、官学のとしての威容も整った。この時の設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が水戸徳川光圀のために製作した孔子廟の模型が参考にされた。また、これまで朱・緑・青・朱漆などで彩色されていたものを黒漆塗りとした。

現在のものは、大正12年(1923)9月1日関東大震災により、罹災、入徳門・水屋を残し全て焼失、これを斯文会が復興計画を立て、昭和10年(1935)に再建したものである。復興聖堂の規模結構すべて寛政9年当時の旧聖堂に拠り、木造であったものを耐震耐火のため鉄筋コンクリート造りとした。祀られる孔子像は、朱舜水亡命時に携えて来たものが大正天皇に献上されていたもを御下賜された御物である」

ということです。「昌平」の意味は既に書いてありますので、当然分かりますね。

この後、御茶ノ水駅付近のレストランでビールとランチを楽しむことになるのですが、下は、目当てのレストランを探している場面です(Nさん撮影)。

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ランチの後、ニコライ堂を見て、解散しました⑰(Iさん撮影)。

下は、Nさん撮影です。