今回は、京急線新馬場駅で集合し、品川宿の西側を中心に歩きました(2018年5月24日)。上の写真は東海寺の大山墓地での1枚です。

下は、今回のルートを示す地図で、オープンストリートマップを用いています。赤い破線は旧東海道です。青い破線は江戸時代の海岸線で、水色の破線は江戸時代の目黒川の流れです。赤丸数字で訪問先を示します。

新馬場駅で集合し歩き始めました①。下は山手通りを横切り東海寺へ向かう途中です。

東海寺は江戸時代大変広大な寺域を誇りました。開山(その寺の初代住職)は沢庵宗彭(たくあんそうほう 沢庵和尚)で開基(スポンサー)は三代将軍家光という有名どころです。

下は、現在の東海寺山門です(Iさん撮影)②。現在の東海寺は塔頭(たっちゅう 寺の中にある寺)の一つ(といっても沢庵和尚のお寺)が名前を継いだのだそうです。

下は正面に見える鐘楼です(Nさん撮影)。

東海寺の古学殿(こがくでん)です(Iさん撮影)。

そこから、目黒川沿いに東海寺の大山墓地へ向かいました。

下は途中の日本最初のガラス工場跡(品川硝子製作所跡)です(Iさん撮影)。

この碑とJR東海道線の間の道を登ると大山墓地です(Nさん撮影)。

下は、沢庵和尚に関連する碑のようですが、字が多すぎてよく分かりませんでした。

下は千利休の碑です。

下は東海寺開山の沢庵和尚の墓地の前です。

沢庵和尚の墓地の全景です。

お墓は下のようになっています(Iさん撮影)。

その少し西側に、下の写真のように、沢庵和尚の碑(左側)があり、その右横に江戸時代中期の儒者で詩人の南郭先生(なんかくせんじょう 服部南郭)の墓があります。

日本の鉄道に貢献した井上勝の墓です(Iさん撮影)。

その向かいに歌手の島倉千代子の墓があります。

江戸時代中期の国学者で歌人の賀茂真淵の墓です(Iさん撮影)。

墓石です(Iさん撮影)。

その後、清光院(せいこういん)を訪ねました④。下は山門です。

とてもきれいに整備されている境内です。参道を進むと唐門があります。この下には椅子があり、庭の風情を楽しみながらのんびりとできるようになっています(Iさん撮影)。

こんなふうです(Nさん撮影)。

本堂です。

本堂の扁額には、「枯木倚寒巖 澤庵叟」と書かれており、沢庵和尚の書と考えられているようです(Iさん撮影)。

清光院には奥平家の広大な墓地があります(Iさん撮影)。奥平家は十万石級の譜代大名で、領国は美濃、宇都宮、山形他を転封され、最後は九州中津藩主として幕末まで続いた家だそうです。

下の写真の右側には、二代藩主家昌夫妻とその姉の墓(五輪塔)が並んでいます。最も右にあるのが家昌の墓のようです。

五輪塔の正面です(Nさん撮影)。

こちらは永井家の墓地です(Iさん撮影)。

境内の一部です(Iさん撮影)。

先程の唐門で皆さん休んでいるようすです。

こんな感じです。

対面です(Nさん撮影)。

境内をもう一枚(Nさん撮影)。

次は本光寺(ほんこうじ)を訪ねました⑤。

本堂です(Iさん撮影)。

三重塔があります。

本光寺の山門です(Iさん撮影)。先程は正面ではない門から入ったようです。

下は天龍寺です。

天龍寺の本堂です(Iさん撮影)。

下は碑文谷地蔵です(Iさん撮影)。

天龍寺山門です(Nさん撮影)。

下は、天龍寺の煉瓦塀です(Nさん撮影)。

その後、海蔵寺に行きました(Iさん撮影)⑦。海蔵寺は江戸時代、多数の無縁仏を供養していたので投込寺と呼ばれていたそうです。

本堂です。

あっちに首塚があるよ。見ないの?(Nさん撮影)。

飢饉で亡くなった人、遊女や処刑された人など様々な人が埋葬されており、全てを含め首塚と言われていたのだそうです(Iさん撮影)。

その次は願行寺(がんぎょうじ)です(Iさん撮影)⑧。

本堂です(Iさん撮影)。

願行寺にはしばり地蔵があります(Iさん撮影)。地蔵は縛られることで病などで苦しむ者の身代わりになったのだそうです。また、首を一つ持ち帰り願をかけ、願いがかなうと首を二つにして返す、という習慣もあったのだそうです。

下は馬頭観音です(Iさん撮影)⑨。

下は、東関森(とうかんもり)稲荷神社です⑩。

鳥居と拝殿です。

ビワがなってました。

松下稲荷です(Iさん撮影)⑪。

この後青物横丁へ向かい、ビールとランチを楽しみました。

しばらく休んで元気になったところで、海晏寺(かいあんじ)を訪れました(Iさん撮影)⑫。このとき少し雨がぱらついてきましたが、それだけで済みました。

本殿です。

昔はもみじ寺と呼ばれ、台東区の正燈寺と並び称されていたのだそうで、その名残を探し境内を少し歩いてみたところ、数本の紅葉がありました(Nさん撮影)。

境内です。

今日はここでお終いとし解散しました。