アラさんの隠れ家歴史散歩江戸近郊道しるべ>「南郊看花記」

 

南郊看花記

文政二年(1819)三月二十五日、村尾嘉陵は、芝の増上寺を抜けて、御殿山から大井の花見をしました。

江戸名所図会増上寺 「文政二己卵のとし二月十五日、南郊の花見ばやと、辰の刻(午前八時)ばかり宿を出。朝まだき(になる前)は空うす曇りて降りもやせんと覚束(おぼつか)なかりしも、芝の辺に行く頃より空晴れて、ことに風さへなく長閑(のどか)なり。小袖一つ着て暑き程なりけり」で始まります。先ず、「愛宕の山、つづき、切通しの坂を上り、少しひぢ折てゆけば、増上寺の乾(いぬい 北西)の門あり、入て行く手の右に柳、桜、あまた植えられたり」、とあります。江戸近郊道しるべ

江戸名所図会増上寺 つまり、愛宕山のふもとから、現在の正則高等学校の前の切通坂を登り、芝中学校・高等学校の前辺りの乾の門から入ったのだろうと思われます。右上の図は江戸名所図会の「増上寺其二」です。「乾の門」は、右上図の左側の上に見える「涅槃門(ねはんもん)」に当たるのではないかと思われます。「切通し」は中央最上部に見えます。なお、図の左側中央にある「山門」は現在の「三解脱門(さんげだつもん)」で、本堂はその左後ろの方向にあります。

右図は、右上図の左につながります。図の右側中央にあるのが本堂です。さて、増上寺の乾の門を入り、境内の西側(本殿の裏側)を「少し行きて、道のかたはらに山あり。石階をのぼる事しばしばにして、上に白金いなりの祠あり。この山のふもとみな花なり」とあります。右上の図の左上端に「白金いなり」があります(図では文字が欠けています。現在の幸稲荷神社のようです)。

江戸近郊道しるべ 絵本江戸土産芙蓉洲辨天社
 赤羽門(あかはねもん)までの道には花が植えられていますが、「瑞蓮院の東池の弁才天の嶋にも、よき花四五株あり」だったそうです。右図は絵本江戸土産の「芙蓉洲辨天社(ふようすべんてんのやしろ)」です。池の畔にも島にも桜が沢山見えます。なお、現在池は非常に小さくなっています。右図の右方向に赤羽門があります。赤羽門の辺りについては江戸名所図会の「赤羽」にも書いてあります。左の自筆本では、散策時から14年前に周辺であった火災のことを書いています。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会聖坂
  赤羽門を出て、現在の国道1号線を南へ進み、三田3丁目の辺りから聖坂(ひじりざか)を上りました。区立三田中学校の辺りにあった功運寺(移転して今はない)という大きな寺院の前を通っていきます。右は江戸名所図会の「聖坂」です。この辺りの様子が分かります。図の中で、左に聖坂、右下に功運寺があります。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会泉岳寺
 その先、長応寺(移転して今はない)の前から、つまり魚籃坂側から泉岳寺に入ったようです。泉岳寺境内は桜数百本植えてあり素晴らしかった、と書かれています。右は、江戸名所図会の「泉岳寺」です。自筆本では、この後3ページほどに渡り、境内で花を楽しんでいた人(名前は民右衛門)と、しばし話をしたこと、また会おうと自分の住所を渡したことなどが書かれています。この後しばらく同行します。

江戸近郊道しるべ 江戸近郊道しるべ  左は、民右衛門の話が続きます。

江戸近郊道しるべ06 この先、御殿山に向かうのですが、 御殿山から先については、地図が残されています。地図を説明してから本文を書く形にします。

 左の図は、自筆本の「南郊看花記」の「自御殿山至大井村路程略図」の3枚構成の図の1枚めです。これら3枚は、右(北)から左(南)につながっています。左図の左半分の少し右側に「御殿山」「東海寺」、左下に「海晏寺」が見えます。下の部分は海で、赤線で表した東海道に、「品川宿」「鮫頭町」とあります。東海寺の「南門」の前を上下に走る道には「目黒道」とあります。このとき、嘉陵は、東海道ではなく、東海寺門前の道を西に向い歩いています。

江戸近郊道しるべ 絵本江戸土産御殿山
 本文に戻り、左のページの最後の2行には、そこから、二人して台の町(白金台)を過ぎ、少し行くと、「向いに御殿山、其の西に大崎の松平出羽守殿のやしき棟をつらねて見ゆ」とあります。右図は絵本江戸土産の「御殿山の花盛」の中の一枚です。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会御殿山
 御殿山は天明の頃、嘉陵の伯母と来たことがあるそうなのですが、「古木の花は其ころよりも猶残り少なになりて、僅かに数うばかりになん」、若木を植え継いだものが多い、と少し残念がっています。右図は江戸名所図会の「御殿山 看花」です。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会海晏寺
 飽きるほど眺めたあと、山の尾を下り、東海寺の中をあちこち見歩いて、南門を出て菜の花ざかりの道を、左に海晏寺を山の間に見ながら進みました。東海寺については、江戸名所図会の「東海寺」を参照して下さい。右は江戸名所図会の「海晏寺」です。右図の左下は東海道です。東海道に山門があり、参道が西に伸びています。海晏寺の西側は台(海岸段丘)になっており、嘉陵たちは上から海晏寺をチラチラと見下ろしていた事になります。

江戸近郊道しるべ06左は2枚めの地図で、海晏寺の先です。海晏寺を見ながら先へ進むと松平陸奥守の屋敷にぶつかり、その屋敷を迂回しながら南へ進むと来福寺があり、更に西には西光寺があります。

図から分かるように、嘉陵は、来福寺の裏側から反時計方向に回るこむ形で南側の小さな門から入りました。

   

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会来福寺
 来福寺は梶原景時が開基で、そのとき植えた松は枯れましたが、嘉陵の訪問時、次の後の代の梶原松がありました。また、春日局ゆかりの「しおがま」という桜もあったようです。右図は、江戸名所図会の「来福寺」です。図の左中央に本堂があり、本堂の前に梶原松があり、その右に梶原桜があります。しかし、しおがまは、図会には見当たりません。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会西光寺
 嘉陵たちはここで飯とし、「やがて、もとの径を出て西南をさして、人のゆくまにまに行く」。「坂をくだれば用水流る。その見わたし(向こう側)に水磨(水車か?)ある家あり。小橋を渡りて少し行けば、西光寺。門を入て、かたはらに白の一重の桜あり、幹は合せいだくばかりにて、槍よもにさし覆ひたるながめ、いとめでたし。あり明ざくらと名づく」。右は、江戸名所図会の「西光寺」です。図の中の左側に山門がありますが、その山門を入ってすぐ左に「児桜(ちござくら)」が、参道の先の左側に「醍醐桜」が見えますが、あり明桜は見つかりません。

江戸近郊道しるべ 品川西光寺 左とその下の自筆本のページには、「車がえし」「児桜(ちござくら)」「たいこ桜(醍醐桜)」など名のある桜の謂れを書いています。右は現在の西光寺の「児桜」です。左から参道の上に覆いかぶさっている桜です。正面は本堂です。

江戸近郊道しるべ 左のページには、堂の傍らの桜の前に「たいこ桜」と書かれた札があったので、その謂れを寺僧に尋ねたところ知らないとの答えであったが、考えてみると醍醐桜ではないか、というようなことが記してあります。「この外にも猶いくもとも(何本も)あるが中に、古への名木の枯たる也とて、株ばかり残れるもあり。そのかみ(昔)はいかにやありしなど、見ぬ世の春も思いやられて、あはれ深し。はた(更に)花見にと来る人も、ここはさまで多からず。堂の縁に腰かけて、飽かずながめ侍り」と桜を堪能しています。

江戸近郊道しるべ06左図の右半分は、西光寺です。上に書かれている有明桜、児桜、醍醐桜の位置が記されています。左半分は、下に出てくる大井村の名主五蔵宅で、台名桜を描いています。

江戸近郊道しるべ 絵本江戸八景坂
 「寺門を出て、岨(そば 崖)にもあらぬ木の下道を、垣にそふて猶南に行き、とばかりの坂を下り果つれば、少しの畠をへだてて、向ひの小高き所に、茅ふける門つきづきしく(ふさわしく)住みなしたる一構えの家あり。其門の前に、桜あまた植えなみたり。こはここ(大井村)の名主五蔵といふ者の宅也けり。この桜を台命桜とよび名づく」と、素晴らしい桜を見つけた喜びを書いています。五蔵宅の図は左上です。台命(たいめい)とは、将軍または三公・皇族などの命令のことですが、嘗て徳川家光がこの桜を愛でたことあったので、それにちなんでいるのか、ということを記しています。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会八景坂
 同行していた民右衛門とはここで分かれます。嘉陵は更に南に行き、八景坂に至ります。「坂をのぼりはつれば、台に茶亭あり、前の岨にいと大なる松二本ばかりあり」。そこから東をみると鈴の森が見え、人や馬が東海道を行き来しています。目を遠くに移すと、海の向こうの遠山は見えないものの、帆を掛けて進む舟など、「いはまくもことばにおよばず(言いたいが言葉にならない)」だそうです。右上は、絵本江戸土産の「八景坂」で、右は、江戸名所図会の「八景坂」です。

江戸近郊道しるべ 絵本江戸池上本門寺
 「しばしながめにあかざりしも、さすが行く先の花に、猶も心の急がれて、坂をくだりに縄手(あぜ道)を行」き、池上村の本門寺に着きました。右は、絵本江戸土産の「池上本門寺」です。本門寺の門前です。本門寺には、十七、八の頃、嘉陵の父親に連れられて着たことがあのですが、わずかしか覚えていない、ということです。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会本門寺
 さて、門を入り段を登ると、三門、釈迦堂、祖師堂が並んでいます。右は、江戸名所図会の「本門寺」の「其の二」です。図の「仁王門」が三門に当たるのではないかと思います。釈迦堂、祖師堂は仁王門の左、つまり右下の「其の三」の図の中に見えます。桜は、八重の色の薄いのが多々あるが、参詣客、商人など人が多く騒がしく、花も冴えない、とこぼしています。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会本門寺
 「日蓮の墓は本坊の西の山にあり」とありますが、この場所は右の図から更に左に外れたところにあります。場所は、江戸名所図会の「本門寺」で確認して下さい。

「申の刻(午後四時頃)告る時、山をくだりて、かへさ(帰り道)におもむく」、「やけい坂のこなた(こちら側)より、田の畔(くろ)を伝いて磐井の社後ろに出、大森の海道(東海道)を熟路(歩きなれた道)につく。五鼓(午後七時)過ぐる頃、家に帰り着きぬ」

江戸近郊道しるべ 左のページ以降、上に掲載した地図が挿入されていますが上に拡大して掲載しましたので省略します。

江戸近郊道しるべ06左図の右半分は3枚目の地図で、上の地図の続きです。右上に五蔵宅、下側に「磐井神社」が見えます。左半分は来福寺境内の図です。

 

江戸近郊道しるべ 江戸近郊道しるべ この後、自筆本には、この日出会った民右衛門のことを記しています。更にその先は掲載を省略します。