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南郊 「瀬田村行禅寺・奥沢村九品仏 道しるべ」

天保二年(1831)九月三日、村尾嘉陵は、二子玉川と九品仏を尋ねる日帰り旅行に出かけました。

下は、自筆本の「瀬田村行禅寺・奥沢村九品仏略図」で、図の上が南、下が北です。

江戸近郊道しるべ06江戸近郊道しるべ06

 

以下、このページの左側に嘉陵の記述を、右側に他の古文書による当時の様子と写真による現在の様子を記します。

今回の紀行文(左下)は「この二日三日、空(そら)定めなく雨降りしに、今日は朝よりよく晴て、雨降るべくもなければ、朝の飯したため、辰の半(午前九時)ばかり宿を出、二子の渡り近き行禅寺(二子玉川の行善寺)にと立出」 で始まります。「かしこは寛量院の君(清水徳川家第四代斉昭)、過ぎし年玉川のほとり入せたまひし折、立よらせたまひし所にて、書院より(からの)眺望よしと承り伝へしをもて、昔の御跡しのばしく(偲びたく思い)、はた(更にまた)眺めよしといへば、そぞろ心ひかれてなりけり」ということです。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会富士見坂
 「赤坂より青山を直に、百人町(青山)、宮益町(渋谷)を行き果つれば小川に橋渡す」とあります。右は、江戸名所図会の「富士見坂 一本松」です。右図の左上端の道の向こう側が青山で、図で手前に向かう下り坂は富士見坂(現在の宮益坂)ですので、嘉陵は青山通りのこの坂を下り、渋谷川に架かる富士見橋(宮益橋)を渡り、右図では右(道玄坂方向)へ向かう道を進んだことになります。道玄坂を「少し上る所に岐路あり、右に行ば駒場村の方、左は世田ヶ谷二子道」とあります。ここの岐路は右図の右上の分かれ道のことかと思われます。図の岐路を手前に来ると駒場、図の右に行くと世田谷二子道(246号線、玉川通り、旧大山街道)です。

江戸近郊道しるべ 上目黒氷川神社 少し行くと三田用水があり、その先に氷川神社(上目黒氷川神社)があります。「道の右に松、杉生茂りたる木立あり。石階を上る事二十段、中段ありて又上る事二十七段、拝殿、本社」があります。右は現在の氷川神社の玉川通りに面した鳥居で、階段を登るのは結構大変です。

「やや行て世田ヶ谷三軒家(三軒茶屋)、三戸ともに酒飯をあきもの(商物 商売のこと)とす。ここより西北に行ば世田ヶ谷宿新町、西南に横折行ば二子道なり」ということで、二子道を進みます。

江戸近郊道しるべ 上目黒氷川神社 少し行くと用賀村、更に行くと瀬田村です。途中、落栗を茹でて小さな器に盛り、銭四文として無人で売っていましたが、盗む人もいない様子に、嘉陵は、都会の人々とは心が違うようだと関心しています。

まもなく行禅寺(現在は行善寺)に着きました。右の写真は現在の行善寺の本堂です。本堂の横の庫裏(くり)に入ると白髪の老婆がいたので、「書院からの景色が良いと聞いて訪ねたのだが見せては頂けないか」と聞いたところ「書院は普段閉めている上、今日は住職が不在のため、庭から見てくださらないか」のことでした。そこで、庭に行き西南の方を見渡したところ、それは素晴らしい景色だったそうです。なお、行善寺は、現在も、境内の風情のよさを「行善寺八景」として案内しています。

江戸近郊道しるべ 行善寺 嘉陵は、「近くは平田の稲色付きたるを見、又玉川の流れ、田の面につらなりて二三湾をなし、遠樹緑黛(りょくたい 美人の眉)の如く、近樹は盆玩(ぼんがん 盆栽のこと)の如く、上にいと高きは富士の嶺はさらなり。大山続きの山々、秩父の諸山その北に連接し、折しも近山の巓(いただき)雲を吐くをみる」と絶賛しています。

右は、現在の行善寺の境内から富士山の方向を撮した写真です(街歩き仲間のIさん撮影)が、この日は残念ながら遠くの山々は見えませんでした。

嘉陵はここでお茶を出してもらい、持参の弁当を食べました。この辺りで良いところがあるか、と件の老婆に聞いたところ、九品仏が近くにあるので行ってみてはいかがかと勧められます。

江戸近郊道しるべ 上目黒氷川神社
 嘉陵は昔、二子の渡しの辺りで鮎捕りを楽しんだことがあり、その跡を辿ろうと、河原を少し歩きます。右は、江戸名所図会の「玉川猟鮎(あゆかり)」です。描かれた場所は二子玉川ではなく、その上流の宿河原の辺りかと思われますが、このようにして鮎捕りをしていたようです。

嘉陵は又、河原のところどころに元気のない草が生えているのを見ては人も草も同じと思いをいたし、翁草(おきなぐさ)を見ては、老いを人に見られるのは憚られるが、自分自身は仕事を何とか続け、その合間にあちこち歩き回っているので、老人のくせにと思われているだろうが、老いについて一首詠んだので心が休まった、というようなことを書いています。なお、この紀行文の末には「嘉陵老人72歳記」としていますので、このとき、満年齢で70歳か71歳であり、現役としては当時ではかなり高齢だったことは確かそうです。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会満願寺
 「かなたこなた川原にさまよふうちに、日も未の刻(午後二時)過るばかり覚ゆれば(時計がないので太陽の位置で時刻を推定しています)、元の道にたちもどりて、行禅寺の間の前より東に横折て、小道を行」きました。そして、道標のあるところで目黒道に出たようです。

右は、江戸名所図会の「満願寺」です。図の下を横に走る道は左へ二子街道、右へ目黒道です。嘉陵はこの道を左から右へ進みました。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会
 暫く進むと制札場を過ぎ、道幅が少し広くなり、九品仏道と刻んだ道標があり、そこは衾(ふすま)村(目黒区八雲あたり)と云うことが分かりました。村人に道を聞き、「垣に沿うて道を少し行て、構へのうち竹の枝折を入ば、九品仏の二王門のこなた、十王堂のかたはらに出。惣門は南に向ふ」。右は江戸名所図会の「奥沢村浄真寺九品仏」で、左下が南です。嘉陵は、現在の東門に当たる所から入ったようです。総門の右に「えんま」と見える(現在と位置が異なる)のが、「十王堂」に当たるものと思われます。「本堂は梁間八間に七間ばかり、西に向ふ、堂に向て九品仏の堂三宇」とありますように、堂宇の配置は、現在と変わらないようです。なお、右上の絵で、総門は下側中央、本堂は中央、その手前に仁王門、九品仏の堂宇は左上に見えます。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会祐天寺
 「二王門は東に向、四間半ばかり。うらの方には雷神、風神の像を置く」と。「境内凡(およそ)七八千坪もありぬべしや」と。参拝を終え、人に道を尋ねると「元(もと)来(こ)し道の外(ほか)、帰るべき道なしといへば」又、衾村をさして戻り、そこから東へ目黒道を進みました。

その先、当時の目黒道は、碑文谷の辺りで北へ向い今の駒沢通りにつながっていたようです。暫く歩いて祐天寺の前を通ります。右図は、江戸名所図会の「祐天寺」です。嘉陵はこの道を右から左へ歩いていきました。その先、地図では途中「空鳥川(うつとりがわ」を越えていますが、これは目黒川を指すようです。そして、めきり坂の富士(元富士のこと)に着きました。右下は絵本江戸土産の「目黒元富士下道」です。そこから北へ向い、渋谷八幡宮(金王神社)を通り、松平左京のやしき隣(青山学院の辺り)から青山通りに出ました。

江戸近郊道しるべ 絵本江戸土産元富士
 「百人町の熟路(よく知った道)に就く。家に帰れば夜の五鼓(午後八時)なり。今日の行程凡そ七八里なるべし(七、八里だろう)」とありますが、もっと歩いていそうな感じです。文末には、「嘉陵老人七十二歳記」とあります。大変な健脚ぶりです。