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都内一円 「八八幡詣の記」

天保二年(1831)六月九日、村尾嘉陵は、八つの八幡神社を尋ねる日帰り旅行をしました。

八八幡詣(ややはたもうで)とは、江戸時代に流行した、全行程15里ほどの下記8社を巡る習慣です。 富岡八幡宮(江東区)、 市谷亀岡八幡宮(新宿区)、 穴八幡宮(新宿区)、 大宮八幡宮(杉並区)、 鳩森八幡神社(渋谷区)、 金王八幡宮(渋谷区)、 御田八幡神社(港区)、 西久保八幡神社(港区)が含まれています。

以下、このページの左側に嘉陵の記述を、右側に他の古文書による当時の様子と写真による現在の様子を記します。記載された地点の位置については逐一は書きませんので必要に応じてリンク先を参照してください。特にリンク先を明示していない場合は原則的には江戸名所図会です。

江戸近郊道しるべ 左は「八八幡巡拝略図」です。北が左下になっています。九段を出発し、「御城」の少し下に見える「市ヶ谷八まん」から始まり、反時計方向に回る順路を選んでいます。

左の地図で少し予習をします。『 』は八八幡です。「御城」の周りは外堀です。九段の「三番町」を出て「市ヶ谷御門」から『市谷八幡』、『高田穴八幡』、高田馬場を右に見て進みしばらく畑の中を西行します。神田川を渡り、中野の法泉寺(宝仙寺)、堀之内妙法寺を通り、『大宮八幡』です。大宮八幡は左の地図の右少し上にあるのですが、赤い丸の中央が欠けており、見落としそうです。そこから東南に向かい、幡ヶ谷不動、玉川上水を越えて『千駄ヶ谷八幡』です。「百人町」を通り『渋谷八幡』(金王神社)です。そこから「渋谷川」に沿って「土屋さがみ」で渋谷川を渡り、「魚藍観音」、「泉岳寺」通り『田町八幡』です。次に『西久保八幡』に寄って、永代橋を渡り八番目の『深川八幡」に到着です。

江戸近郊道しるべ 名所江戸百景市谷八幡  今回は「世に八八幡(ややはた)詣でといふ事あり。老の足の覚束(おぼつかな)けれど、頓(とみ=急に)に思ひたち侍りぬるは、天保二年辛卯(かのとう)水無月(六月)九日にぞありける」で始まります。「ほのぼの明に、三番町のやどり(千代田区九段)を出、市谷八まん宮(新宿区市ケ谷八幡町)に詣る(もうづる、ではなく多分、いたる。以降同様)」とあります。右は、広重の名所江戸百景の「市ヶ谷八幡宮」です。下は、江戸名所図会の「市ヶ谷八幡宮」です。
江戸名所図会市谷八幡

江戸近郊道しるべ「夫より、かぐら坂(新宿区神楽坂)をのぼり、榎町(新宿区)、どどめき(弁天町)なんどいふ所々を過て、高田村の八幡宮(穴八幡神社、新宿区西早稲田)に詣る」。下の挿絵は、江戸名所図会の「高田八幡宮」です。挿絵の右下に「総門」があり、そこから「坂をのぼりて、上に楼門、随身を置、その傍に氷室の社」、「楼間を入て西に鐘楼あり。本社は南に向て立せ給ふ」とあり、この部分は記述の通りになっています。嘉陵は東照宮などがあると書いていますが、下の挿絵には見当たりません。「別当の坊の間のかたはら、この御神出現ましましける所をも拝す。横穴の口三尺四方ばかりに、石をたたみ、うちにも岩の姿したるもの見ゆ。暗くしてよくも見えず。世に穴八まん宮と申すは、このよしあるをもて也とぞ」。

江戸名所図会高田八幡宮 江戸名所図会高田八幡宮

江戸近郊道しるべ 絵本江戸土産高田馬場 「山のすそに、みたらし(御手洗 手、口を清めるところ)あり。岸の水くさしげりあひて、いと涼し。向の岨(そば=がけ)に梵字彫たる青き石の断碑(割れて欠けた石碑)あり。水を隔つれば(流れで近寄れないため)文字あるも遠くて、読み得べからず」とありますが、挿絵のどの辺りにあるのかは不明です。

「こゝを出て、高田の馬場(新宿区西早稲田)の南の側に沿ふて西行」します。右は、絵本江戸土産の「高田馬場」です。

江戸近郊道しるべ 絵本江戸土産高田馬場 「やや馬道をくだり行ば、上高田村(中野区上高田)の橋にいたる」とあり、この橋は神田川に架かる小滝橋のようです。「ほどもなくて、中野法泉寺(宝仙寺、中野区中央)の塔のかたはらより、青梅の街道に 出て熟路(よく知った道)を行」きます。「辰の半刻(午前九時)過る頃、おし物(落雁の類か?)商う、しがらきといふがもとに(しがらき、というところに)立ち寄りて朝の飯したたむ」「ここにしばし足を休めて、妙法寺(杉並区堀の内)に詣(もう)で、釈迦堂、祖師堂をおがみ廻り、門を出て南行」します。右は、絵本江戸土産の「堀之内妙法寺」です。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会大宮八幡宮
  妙法寺を出て「猶(なお)熟路を行事(ゆくこと)半里あまりにして、大宮八まん宮(杉並区大宮二丁目)に詣る」。右は江戸名所図会の「大宮八幡宮」です。「三とせの前丑のとし(文政十二年)、宿願の事ありて詣りしとき、歌よみて広前の石の燈籠に書付しも、半消て見えず」と、ここにも跡を残したようです。ところで、ここには、昔源義家ゆかりの松が並んで居たのだそうですが、嘉陵が訪ねた時には「今猶古木の残れるが二もとあり、 一(ひとつ)は鞍掛松(くらかけまつ)といふ。大門の南側、民戸の垣根にあり」なのですが、「梢(こずえ)東になびきたるは、義家朝臣東征を神の擁護し給ふしるし也と、土俗の口碑に伝るよし」との記述から奇妙な形をしていることが察せられます。右下の江戸名所図会の「鞍掛松」の挿絵で、どの様な形をしていたのか分かります。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会大宮八幡宮鞍掛松 「今一(ひと)もとは、並木の東のはてに在。これより神の大門なりといふ印に、残されしとぞ。これを一本松といふ」とあります。

さて、「夫より大門を東行する事一里半余、この道少し高き所をのぼりくだる事二度、その低き所は南北の見わたし皆田也。高き所は悉く畑也。一曲して、北に行ば幡ヶ谷村(渋谷区幡ケ谷)にいたる」、「また一曲して北行、幡ヶ谷不動(荘厳寺 渋谷区本町)に至る」。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会千駄ヶ谷八幡宮
「寺門を出て少し行ば、甲州街道新町(渋谷区代々木)に至」り、更に「畑の中道をゆけば、千駄ヶ谷通り路のかたはらに出。南行少しばかりにて、同所八幡官(鳩森八幡神社、渋谷区千駄ケ谷)に至」ります。右は江戸名所図会の「千駄ヶ谷八幡宮」です。「このみやしろ近頃焼て、いまだ建ず。上屋を造るをみれば、近く経営を企るなるべし」と、火災にあったようですが、「社の近くに山を築き、岩を累(かさ)ねて、上に富士浅元を祭る。この外見るべき所なし」だそうです。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会渋谷八幡宮
  「東出の間を出て、小坂を下る。左に寺あり。如意輪観音の堂、いらか高く造りなしたるは聖輪寺(渋谷区千駄ケ谷)と云う。拝みて寺門を出」「その続きに寺猶二宇あり。一は高松院(今なし)、一は立法寺」「この寺の前より南に横折れゆけば、青山熊野の社(渋谷区神宮前)のかたはらに出」、青山通り百人町、伊勢野(渋谷区渋谷)を経て渋谷八幡(金王八幡神社)に着きます。右は、江戸名所図会の「渋谷八幡宮」です。嘉陵は、この後、金王丸の系譜や社について述べています。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会広尾水車
  嘉陵は、上杉、北条の戦いのこと、又、伊勢野についても書いていますが、記載省略します。「ここより少しの坂をくだり、渋谷川のふちに添うて、東に少し行ば小橋あり」、橋を渡り南に行くと目黒不動尊(日黒区下目黒)ですが、嘉陵は渡らずに進みます。なお、渋谷川は下流で古川と名を変えます。流れに沿って進むと、水車がありました。これは山下橋(水車橋)の近くにあった玉川家の水車かと思われます。右は、江戸名所図会の「水車(みずくるま)」です。なお、この水車の少し前辺りの嘉陵の記載には、上の地図と一致しないと思われる箇所もあり、又、上に示した地図ではこの辺りの修復に失敗しているように見えます(あるいはスキャンする際に剥がれてズレたか)。この辺りは、正確に追いかけるのは困難でした。

江戸近郊道しるべ 絵本江戸土産相模殿橋
堀留橋の先(堀留橋ついては私はその位置を特定できていません)、「橋を右に見て、川にそひて猶行」くのですが、上の地図から分かるように、この辺りで少し渋谷川から離れた道を歩きました。そうすると、「白かね御殿跡に出、上の町といふ所よりさがみ橋の通りに出」ました。白金御殿は、元禄の頃建てられ、それからまもなく大きな火災のため焼失したようですが、麻布御殿、富士見御殿とも呼ばれたようです。地図に「土屋さがみ」と書かれているように、当時ここに土屋相模守の屋敷があったため、四の橋を相模殿橋と呼んでいたそうです。右は、絵本江戸土産の「麻布古川 相模殿橋 広尾之原」です。「さがみ橋を又向ひに越て、中道寺を右に見て、三田の魚藍観世音(港区芝三田箕輪へ移転)を拝し」とあります。更に自銀台町(港区)を横切り、「泉岳寺(港区高輪) にいたり、四十七士の墓と、堀部安兵衛が妻妙海禅尼の墓まふでして、その南にとなれる木食旦唱が造立せし如来寺(品川区に移転)にまふで」ました。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会三田八幡宮
「寺門を北に、牛町(港区高輪)、大木戸(同上)を過て、田町薭田(ひえだ)の神社(御田八幡宮 港区三田)に詣る」。右は、江戸名所図会の「三田八幡宮」です。「鳥居の額に旭燿山とあり。即(すなわち)田町の八幡宮是也(これなり)。みやしろは小高き所に東に向て立せ給ふ」ので海が見渡せよい景色だったようです。「社頭に在て、しばし薫風に暑さを忘る。ここを出て、札の辻(港区三田)より北行。赤羽橋(桜田通りの古川を渡る橋)を渡り、土器町(港区麻布台)をのぼりに西の窪八まん宮(港区虎ノ門 西久保八幡神社)に詣る。ここにて芝増上寺の鐘鳴を聞」きました。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会西久保八幡宮 右は、江戸名所図会の「西久保八幡宮」です。嘉陵は、子供の頃この近くに住んでおり、「おのれいとけなき頃を思ひ出れば、ここの近きあたりに住しかば(住んでいたので)、としごとの葉月十五日には、ここの広前に、若きものども、あまたつどひて、角力あるを必来てみしも、六十年余りの昔と成ぬ」だそうです。

「ここより天徳寺(港区虎ノ門)の前を過」ぎ先へ進みますが、「これより末、深川八まん宮(江東区富岡)に詣るみちすがらは、記すべきよしもなければ、筆をさし置侍り」と、道の記述は省略しています。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会富岡八幡宮
  「富が岡八まん宮に詣りつきぬれば、申の半刻(午後五時)ばかりにぞありける」。右は、広重の書いた「江戸名所深川八幡の社」です。江戸名所図会の「富岡八幡宮」には、下のように3枚連続して構成された挿絵が書かれています。右の広重の絵は、下の江戸名所図会の中央の挿絵の右中程に見える鳥居の付近で描いたものと思われます。「かへりみち竹橋御門(千代田区北の丸公園)のこなたを過る頃、六(午後六時)の御太鼓鳴」で紀行文を終えています。

江戸名所図会富岡八幡宮 江戸名所図会富岡八幡宮 江戸名所図会富岡八幡宮