アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之四 第十二冊
巻之四 天権之部
第十一冊 市ヶ谷、大久保、中野、小金井、高田
第十二冊 高田、落合、目白、雑司が谷 (このページです)
第十三冊 小石川、巣鴨、石神井、大宮 (準備中)
江戸名所図会 巻之四 天権之部 第十二冊
江戸時代の風景 | 現在の様子 |
高田馬場(たかだばば)について、江戸名所図会の本文には「昔、右大将(うだいしょう)頼朝卿(よりともきょう)隅田川(すみだがわ)より此地(このち)に至(いた)り軍(いくさ)の勢揃(せいぞろえ)ありし旧跡(きゅうせき)なしといえり・・」とあり、また、「寛永十三年に至(いた)り今の如(ごと)く馬場(ばば)を築(きず)かせたまい、弓馬(きゅうば)調練(ちょうれん)の所(ところ)となさしめらるるとなり・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた高田馬場は上の地図の緑色の楕円の辺りでした。 |
挿絵には、「 山吹の里(やまぶきのさと)は高田の馬場(たかだのばば)より北の方、民家の辺りをいう。昔(むかし)太田持資(おおたもちすけ)江城にありし頃、一日(あるひ)此戸塚(とつか)の金川(かながわ)の辺に放鷹(ほうよう)す。急雨(きゅうう)に遇(あ)うて傍(かたわら)の農家(のうか)に入り、箕(みの)をからんことを乞う時に、内より小女出て詞(ことば)はなく盛(さか)りなる山吹の花一枝をもて持資に捧(ささ)ぐ。こは後拾遺集(ごしゅういしゅう)に『七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき』とある兼明親王(かねあきしんのう)の和歌(わか)によりて答(こた)えたるにて、今も其才(さえ)を賞(しょう)し世(よ)に伝(つた)えて美談(びだん)とせり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた山吹の里の位置はあまりはっきりしません。どうやら、うえの地図の緑色の楕円のどこかである可能性が高いようです。江戸名所図会によると、オレンジ色の楕円の辺りかと推測できます。神田川に架かる面影橋の北側(右図の赤色の円の辺り)に山吹の里の碑があります。 |
上は、 山吹の井(やまぶきのい)の挿絵です。 | |
高田(たかだ)七面堂(しちめんどう)朝日桜(あさひろう)の挿絵には、中央少し上に「七面堂」、その右に「朝日堂」、左側に「亮朝院」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円のあたりです。 右は、如意山(にょいさん)亮朝院(りょうちょういん)栄亮寺(えいりょうじ)の山門です。 右は、朝日堂で、これも、江戸名所図会の挿絵と同じ位置にあります。 右は、亮朝院本堂で、これも位置は同じです。亮朝院の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
姿見橋(すがたみのはし)の挿絵では、左手前が「俤(おもかげ)のはし」、右端に「姿見橋」と「南蔵院」と「氷川」、その左上に「宿坂」、「金乗院」があり、さらに遠景に「藤いなり」があります。 この挿絵では、手前に「俤のはし」、右に姿見橋が描かれており、姿見橋と俤橋は違う橋となっています。が、これは一説とされているようです。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。江戸切絵図を見ても二つの橋は見当たりませんので、ここでは、赤い円で姿見橋=面影橋と仮定しています。 右は、南蔵院です。上の地図のオレンジ色の円の辺りです。南蔵院については、下の欄も参照してください。 |
高田(たかだ)南蔵院(なんぞういん)鶯宿梅(おうしゅくばい)氷川社(ひかわのやしろ)右橋(みぎはし)の挿絵では、手前に「氷川」があり、中央右に「南蔵院」、「鶯宿梅」、「薬師」があり、画面中央左に「右はし」があり、左上に「砂利塚村」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、南蔵院の山門です。上の地図のオレンジ色の楕円の位置にあります。 右は、南蔵院の本堂です。南蔵院の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、右橋の辺りです。現在も道路の形は保たれていますが川も橋もありません。 右は、氷川神社の拝殿です。氷川神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
宿坂関旧址(しゅくさかせききゅうし)金乗院(こんじょういん)観音堂(かんのんどう)の挿絵には、「此標石の小路を行きて浅間坂へ出る」とあります 挿絵の右の坂は「宿坂」です。中央左に「金乗院」、上に「観音」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、本堂です。金乗院の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 金乗院には、現在、目白不動が祀られています。かつて、目白不動は現在の文京区の目白坂にあったのですが、戦災で大きな被害を受け廃寺となり、本尊の目白不動尊はこのここ金乗院に移されて現在に至るのだそうです。 |
上は、 泰雲寺(たいうんじ)古事(こじ)の挿絵です。 | |
藤森稲荷社(ふじのもりいなりのやしろ)の挿絵には「東山(ひがしやま)いなりともいう」とあります。右下の道は現在のおとめ山通りで、左下の道は現在の新目白通りの一本北側の道かと思われます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。藤森稲荷は、東山藤稲荷神社、東山稲荷、藤稲荷などと呼ばれるようです。 右は、拝殿です。東山藤稲荷の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
一枚岩(いちまいいわ)の挿絵には「落合(おちあい)の近傍(あたり)神田(かんだ)上水の白堀通(しらほりとおり)にあろて。一堆(いったい)の巨巖(こがん)水面(すいめん)に彰(あらわ)れ藍水(らんすい)巌頭(がんとう)にぬれて飛(ひ)さいす。此(この)水流(すいりゅう)に鳥居ヵ淵(とりいがふち)犀ヵ淵(さいがふち)等その餘小名多し。此邊は都(すべ)て月の名所にて秋夜(しゅうや)幽趣(ゆうしゅ)あり」とあります。 |
江戸名所図会の一枚岩の挿絵に描かれた場所は上の地図の赤色の円の辺りかと思われます。江戸時代の井草川(現 妙正寺川)と神田上水(現 神田川)との落ち合う場所で、落合の名前の起源だと言われています。 |
落合惣図(おちあいそうず)の挿絵では、左下から中央右へ流れる川(神田川)に沿って、「泰雲寺」、「落合」、「一枚岩」、「田島橋」と見えます。 画面中央の少し上に「薬王院」、「鼠山」があり、画面中央から右上にかけて「氷川」、「富士(藤稲荷神社)」があります。 画面の左中央から右に流れてきて一枚岩で合流する川は現在の妙正寺川です。 氷川神社の右上にくねくねとした坂が見えます。七曲坂と呼ばれていました。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。江戸時代の井草川(現 妙正寺川)は今の下落合駅の東側で大きく南に曲がり黄色の円の辺りで神田川と合流していました。泰雲寺は地図の青い円の辺りでしたが、現在はありません。 右は、拝殿です。氷川神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、東山稲荷神社(藤稲荷神社)の拝殿で、オレンジ色の円の辺りにあります。由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、薬王院の本堂です。由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
落合蛍(おちあいほたる)の挿絵には「此地(このち)の蛍狩(ほたるがり)は、芒種(ぼうしゅ 二十四節気の一つで6月中旬)の後(のち)より夏至(げし)の頃迄(ころまで)を盛(さかり)とす。草葉(くさは)にすがるをば、こぼれぬ露(つゆ)かとうたがい、高(たか)く飛(とぶ)をば、 あまつ星(ほし)かとあやまつ。游人(ゆうじん)暮(くる)るを待(まち)てここに逍遥(しょうよう)し壮観(そうかん)とす。夜涼(すず)しく人定(さだま)り風清(かぜきよ)く月朗(ほがらか)なるにおよびて、 はじめて帰路(きろ)をうながさん事を思い出たるも一興(いっきょう)とやいわん」、とあり、又「永正十三年(1516)正月 後奈良院 御撰何曾(なそ) 秋の田の 露おもげなる けしきかな 蛍」とあります。 画面少し上の左から右へ「上水川」、「田嶋橋」、「氷川」と見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺かと思われます。赤色の円は田島橋、紫色の円は氷川神社です。いずれも上の段に書かれたところです。 |
上は、 牛天神社(うしてんじんのやしろ) 牛石(うしいし) 諏訪明神社(すわみょうじんのやしろ)の挿絵です。挿絵の上側、高台に牛天神の「本社」があり、その周囲に「御供所」、「かぐら所」、「揚弓」があります。 挿絵の右側の階段を降りると「表門」と「別当」があります。左側の階段を降りると「裏門」、「牛石」が見えます。挿絵の下側に、「すわ」(諏訪明神社)と「上水」(神田上水)が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は牛天神(現 牛天神北野神社)で、紫色の円は諏訪明神社(現 諏訪神社)です。 右は、挿絵の右下から牛天神方向を見た写真です。現在、挿絵に書かれた表門に至る参道(階段)はありません。 右は、拝殿です。牛天神の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、拝殿です。諏訪神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
金剛寺(こんごうじ)氷川明神社(ひかわみょうじんのやしろ)の挿絵の右半分が、金剛寺です。「本堂」の左後ろから右前に向かい、「実朝碑」、「鐘楼」、「惣門」が見えます。挿絵の左半分の上に、氷川明神社が「氷川」と表されています。左半分の下側は本法寺と日輪寺です。中央辺りに「本法寺」がありますが、本堂と思しき堂宇がみえるだけで、そこに、「此遍神田上水なり」とあります。日輪寺については、 「日輪寺」とあります。 江戸名所図会の本文には、金剛寺については、「同所(小石川のこと)上水堀(じょうすいほり)の端(はし)にあり、曹洞派(そうとうは)の禅刹(ぜんさつ)にして、駒込吉祥寺(こまごめきちじょうじ)に属(ぞく)せり・・・」とあります。 又、本文には、氷川明神は日輪寺にあった、と書かれています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。ただし、離れた2地点を1枚の絵に書き込んでいます。赤い円は金剛寺(現在ありません)で、紫色の円は本法寺と日輪寺です。 右の写真は、金富小学校の校庭で、この辺りから奥一帯に金剛寺があったようです。 右は、本法寺です。本法寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、日輪寺です。日輪寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上は、 小日向上水端(こひなたじょうすいはた)道祖神祠(どうそしんのほこら)の挿絵です。 江戸名所図会の本文によると、金剛寺の西に二丁程のところに竜門寺があり、そこに勧請の碑がある、と書かれています。ただし当時の江戸切絵図には、この辺りに龍門寺という寺院が見当たりません。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた場所はよく分かりません、上の地図の水色の破線は巻石通りで、昔は神田上水白堀だったところです。小日向上水とは、この辺りの神田上水を指すものと思われます。 |
上は、 大日坂(だいにちざか)大日堂(だいにちどう)の挿絵です。 江戸名所図会の本文には、大日堂について、「大日堂(だいにちどう) 同(氷川明神のこと)西の方、大日坂(だいにちざか)にあり、天台宗(てんだいしゅう)にして覚王山(かくおうざん)妙足院(みょうそくいん)と号(ごう)す・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
上は、 目白下(めじろした)大洗堰(おおあらいぜき)の挿絵です。 この流れは神田上水です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
芭蕉庵 五月雨塚 駒留橋 八幡宮 水神宮 (江戸名所図会より) 芭蕉庵(ばしょうあん)五月雨塚(さみだれつか)駒留橋(こまとめはし)八幡宮(はちまんぐう)水神宮(すいじんぐう)の挿絵では、中央に「八まん 水神」、「竜隠庵(りゅうげあん)」があり、右手前に「駒留橋」があり、右上に「はせを(ばしょう)堂」、「こんぴら」、「五月つか」があります。 中央の流れは神田上水です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。駒留橋は地図の紫色の円の辺りにありましたが、現在はオレンジ色の位置に移っています。 右は、現在の関口芭蕉庵の入り口です。上の地図の赤い円の辺りが竜隠庵ですが、それが現在の芭蕉庵かと思われます。当日は入館できなかったため、内部は確認できていません。 鳥居の先の階段を登ると、右のような拝殿があります。水神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 江戸名所図会の挿絵ではよく分からないのですが、水神宮と竜隠庵の間に胸突坂があります。そこを降りきった所(地図のオレンジ色の円)に、現在は右のような駒塚橋が神田川(神田上水)に架かっています。 |
上は、 道山幸神社(みちやまこうしんのやしろ)です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、幸神社(こうじんじゃ)です。幸神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
目白不動堂(めじろふどうどう)の挿絵には、「境内眺望勝(まさ)れたり。雪景尤(もっとも)よし」とあります中央右に「本堂」があり、その上から時計方向に「観音」、「別当」、「裏門」、「あきば」、「稲荷」、「鐘楼」、「表門」、「料理や」、「茶や」があります。左下は「目白坂」、遠景には「わせ田」、「高田」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。目白不動堂は赤い楕円の辺りでした。お寺の名前は、東豊山浄滝院新長谷寺でした。 右は、現在の目白坂です。この坂の上の辺りに目白不動堂があったようです。目白不動堂は戦災で堂宇を全て失い、高田の金乗院慈眼寺に合併されました。 右は、現在の金乗院の目白不動堂です。金乗院、目白不動堂の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上は、 目白坂(めじろさか)関口(せきぐち)八幡宮の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。 右は境内と拝殿です。正八幡神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
江戸名所図会には、本伝寺(ほんでんじ)は日蓮宗で、中興開山は元和(17世紀初頭)年間、日行上人とあります。上の挿絵では、山門を抜け参道を進むと「本堂」があり、その右手前は「かね」」です。本堂の左には「祖師堂」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲を上の地図の緑色の楕円で示します。本伝寺は不忍通りに面して門が2つあり、東側が本伝寺山門、西側は波切不動堂門です。 右の写真は本伝寺の山門です。以下に示すように、門や堂宇の位置はほぼ江戸時代と同じになっているようです。 右は本堂です。本伝寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は波切不動堂です。祖師堂の左側にあります。波切不動堂は江戸時代には現在の場所から100m程西(上の地図の赤丸辺り)にあったのですが、明治末期から大正いかけて、本伝寺境内に移されたのだそうです。 |
上は、 波切不動堂(なみきりふどうどう)です。 |
江戸名所図会に描かれた波切不動堂の位置を上の地図の赤色の楕円で示します。 右は現在の波切不動堂です。波切不動堂は、上の欄にも書いたように、現在、本伝寺の祖師堂の左側にあります。明治末期から大正にかけて、本伝寺境内に移されたのだそうです。 |
大塚護持院(おおつかごじいん)の挿絵では、手前の道は現在の不忍通りで、右下の「惣門」から参道を進むと、「中尺門」を通り「玄関」から「方丈」あるいは左右の「護摩堂」、「庫裏」につながっています。 護持院は、江戸時代初期には神田にありましたが、享保年間に火事で焼け、護国寺に入りました。神田の跡地は護持院原と呼ばれ江戸名所図会にも書かれています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲を上の地図の緑色の楕円で示します。大塚護持院は明治に入って廃寺となり、現在は豊島ヶ岡御陵となっています。 |
以上の5枚の挿絵(其二から 其六)はパノラマになっているようです。また、その前の護持院ともつながっており、そのため、最初が其二になっています。護持院から其二は東から西へとつながっていますが、其三は順番が狂っていて、其六の後につながるように思えます。 其二の右側(東)は護持院の絵とつながっています。絵の下側の不忍通りの「仁王門」から入り階段を上がると左に「西国札所一番」、右に「番屋」、「大師堂」を見ながら進み、さらに階段を上がると、正面に「本堂」があります。本堂への参道の左には「いなり」、「地蔵」、「やくし」、「経堂」があり、右には、「鐘楼」があります。 其二の西隣は其四ではなかろうかと思います。なお、其四から其六まではパノラマ状につながっているようですが、其二とは視線の方向が違っているようです。 其四 護国寺境内 西国札所写(うつし)三十三所観音の図 の右上端にある「一番」は其二の左端にあった「西国一番札所」のことかと思われます。其五と其六は更に西側に続く絵のようです。絵には、「一番」から「三十三番」まであります。 其三の中央は本浄寺(ほんじょうじ)です。「本堂」、「七面堂」と見えます。絵の上の端に「護国寺裏門」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 護国寺の現在の境内マップです。映り込みがひどくて見づらいのですがご容赦ください。 右は、本堂です。階段を上りきったところにあります。護国寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 再度不忍通りに戻り、二王門の少し東に移動すると、右のような惣門があります。 右は、其三にある本浄寺の入口階段です。本浄寺は、上の地図の赤い丸印のところにあります。 右は、本浄寺の本堂です。本浄寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
清土(せいど) 星の清水(ほしのしみず)の挿絵には「雑司ヶ谷鬼子母神の出現ありし地なり。七本杉といえるは一根にして七つに分かれたり」とあります。七本杉とは、正面少し右の杉のことでしょうか。 本文には、更に「正面の井泉(せいせん)を星の清水と名付」と説明しています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた場所は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 ここは、現在、右の写真のようになっています。写真左側には井戸の跡、右には清土鬼子母神があります。 右は、清土鬼子母神です。清土鬼子母神の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵には、絵の中央上側に「 清立院(せいりゅういん)」、其の境内に「日親堂(にちしんどう)」、「請雨松(しょううのまつ)」があります。画面左側には「宝城寺(ほうじょうじ)」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右の写真は、清立院の参道入口です。階段の上に本堂が見えます。 右は、清立院の本堂です。清立院の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、何代目かはわかりませんが、今も残っている雨乞いの松です。 右は本堂です。宝城寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵の中央には「雑司谷(ぞうしがや)鬼子母神堂(きしもじんどう)」があり、右上に「法明寺(ほうみょうじ)」があります。 この挿絵右下には「 五元集 雑司ヶ谷にて 山里は 人をあられの 花見うる 其角」とあり、左下には「門前両側に酒肉店(りょうりや)多し。飴をもてこの地の産とし川口屋(かわぐちや)と称するものを本元とす。その家号(かごう)を称(とな)うるもの今多し」とあります。 左下側から続く参道を進むと、「一鳥居」があり、その両側に「茶や」が並んでいます。「大門」と書かれた所を左に曲がると二の鳥居があり、「石仁王」とあります。鳥居の先には「本社」があります。本社への参道の左側には「あめや」が並び、「いなり」「御供所」が見えます。 画面中央から右上にのびる道を進むと「弦巻川」を越えて法明寺の「二王門」に至ります。その左右には「寺中(じちゅう 塔頭(たっちゅう)のことで寺の中の寺)」があり、先へ進むと「「祖師」、「釈迦堂」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、鬼子母神の参道です。参道は挿絵の時代とほぼ同じになっているようです。 右は、鬼子母神堂です。鬼子母神堂の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、武芳稲荷大明神です。挿絵の稲荷と同じ場所にあるようです。 右は、法明寺の山門です。が、挿絵の二王門に当たる門かどうかはわかりません。 右は、法明寺の本堂です。法明寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵には右のように書かれています。
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雑司谷(ぞうしがや)の会式(えしき)は毎歳(まいさい)十月八日より十三日迄修行(しゅぎょう)す。参詣の輩(ともがら)は同じく六日の頃より廿三日頃迄群集(ぐんしゅ)して稲麻(とうま 幾重にも取り囲んでいるさま)の如し。寺中(じちゅう)には各(おのおの)機関(からくり)木偶等の飾物を設く。いづれも宗祖(しゅうそ)上人一代の間の事を造りあらはしたるは、一宗興立(こうりゅう)の功労(いさおし)を宗門の徒(ともがら)に示さんとにや。 菊鶏頭(きくけいとう)伐(き)りつくしけり御命講(おめいこう) はせを(芭蕉) |
上の挿絵には右のように書かれています。 |
此の地にて製(せい)する所の麦藁細工(むぎわらざいく)の角兵衛獅子(かくべえずし)は、昔(むかし)高田四ツ家町に住(じゅう)せし久米女(くめじょ)といへる者、壱人(ひとり)の母に孝あり。家、元(もと)より貧しく、孝養心(こうようこころ)のままならぬをなげき、常に当所の鬼子母神へ詣(けい)し、 深く此の事を祈りしに、寛延二年(1749)の夏ふと思いつきて、麦藁(むぎわら)をもて手遊びの角兵衛獅子の形を造(つく)り、これを当所にて商いしに、その頃はことに参詣多かりしかば、求むる人夥(おびただ)しく、 竟(つひ)にこの獅子の為(ため)にその身栄え、心易(こころやす)く母を養ひたりとぞ。至孝(しこう)の徳、尊神(そんしん)の冥慮(みょうりょ)にかなひしものなるべし。 |
巻之四 天権之部
第十一冊 市ヶ谷、大久保、中野、小金井、高田
第十二冊 高田、落合、目白、雑司が谷 (このページです)
第十三冊 小石川、巣鴨、石神井、大宮 (準備中)