アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之五 第十四冊
巻之五 玉衡之部
第十四冊 神田、上野、谷中、日暮里 (このページです)
第十五冊 根津、駒込、王子、豊島、川口 (準備中)
江戸名所図会 巻之五 玉衡之部 第十四冊
江戸時代の風景 | 現在の様子 |
聖堂(せいどう)とは現在の湯島聖堂のことで、上の挿絵には次のように書かれています。 新葉集 釈尊 から人の むかしのかげを うつし来て あふげば高き 秋の夜の月 妙光寺内大臣 挿絵の右上に「大聖殿」が、その前に「杏壇門」、さらにその前に「入徳門」、その付近に「梅檀」、「井」があります。右下に「仰高門」、「装束所」があり、聖堂の右に「昌平坂」があります。手前の川は「神田川」です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。
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上の神田明神社(かんだみょうじんのやしろ)の挿絵には次のように書かれています。 暮景集(ぼけいしゅう) 深夜の帰雁(きがん)といふことを神田の社にて各々よみはべるとき 鳴きつれて 声よりこゑも ますらおの こころにかへる 夜半のかりがね 太田資持(持資とは太田道灌のこと) 左下の「門前板橋街道」にある鳥居を潜り参道を進むと「楼門」がありその先に「本社」があります。楼門の内側には、本社を囲むように反時計回りに、「揚弓」、「湯立所」、「茶屋」、「稲荷」、「ほうさう(疱瘡)神」、「山王」、「猿田彦」、「人丸」、「大黒」、「住吉」、「三峯」、「八幡」、「太神宮」、「すは(諏訪)」、「三峯」、「みこし蔵」、「御供所」、「三しま」、「いなり」、「牛頭天王三社」があります。 江戸名所図会の本文の説明では、神田大明神社は、江戸総鎮守で、大己貴命(おおあなむちのみこと おおなむちのみこと 大国主命)と平親王将門霊(へいしんおうまさかどのれい)の二座が祭神で、江戸時代の初期に駿河台へ、更に現在の場所へと遷ったとのことです。 祭礼は隔年の9月15日でした(現在の神田祭とは日にちが異なります)。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。
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上の挿絵の其一には「神田明神 祭礼 隔年九月十五日に 執行(とりおこな)ふ氏子の 町々より練物(ねりもの)車楽(だし)等を出す中にも 大江山凱旋 牛若丸奥州下(くだり) 朝鮮人来朝の学びなとは 殊に遠近に聞へて 其名高く 最(もっとも)美観たり」とあります。 挿絵の其二には「花すゝき 大名衆を まつりかな 嵐雪」とあります。 江戸名所図会の本文では、祭礼は隔年9月15日で、永田馬場山王神社(現在の赤坂の日枝神社)を第一とし、当社はこれに次ぐものとし、幕府公認で、練物(ねりもの)楽車(だんじり)を飾りたて、街中を練り歩き、江戸中の人が貴賎を問わず桟敷をかけて見物した、とあります。 |
神田明神のお祭りである神田祭りは、日本三大祭の一つ、江戸三大祭りの一つに数えられ、「天下祭」として知られ、現在、隔年で5月中旬に行われています。江戸時代は左の挿絵の其四にあるような山車も多数出たようですが、明治に入り、電線のためなどで山車はなくなり、御輿中心になったようです。 |
上の挿絵には、 円満寺(えんまんじ)、俗に木食寺(もくじきでら)といえり、とあります。 「仁王門」、「多宝塔」、「本堂」、「護摩堂」が見えます。 画面右側には境内社、「あきば」、「えびす」、「べんてん」、「だいこっく」、「いなり」、「じぞう」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。中央少し左下です。
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霊雲寺(れいうんじ)の挿絵には次のように書かれています。 大悲心院 花を見はえりて 灌頂の 闇より いでて さくらぎや 其角 右下の「惣門」から入り、左に曲がるところに「鐘楼」があり、その先に「灌頂堂」、その左奥に「開山堂」があり、その更に奥には「大元堂」、「方丈」があります。画面左端には境内社、「賀茂、いなり、八まん」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。
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上の挿絵は妻恋明神社(つまこいみょうじんのやしろ)です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。
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上の、 湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)の挿絵には、次のように書かれています。 月毎の二十五日には植木市(うえきいち)ありて、殊更(ことさら)にぎわしく一時(いちじ)の壮観なり 表門の通り左右に料理茶屋あり 挿絵の右に「鳥居」があり、参道の先に「拝殿」があります。拝殿の周囲には時計方向に、「神楽殿」、「いなり」、「かん音」、「戸隠」、「本社」、「茶屋」、「じぞう」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。
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上の麟祥院(りんしょういん)の挿絵には次のように書かれています。 いやたかき きみのめぐみの かすが山 よもに朝日の 光そえつつ 烏丸光廣卿 麟祥院は大変広い境内を持っています。絵の中央下に「惣門」があり、参道の先に「本堂」、「鐘楼」、「庫裏」があります。本堂の左には、「禅堂」、「開山堂」、「いなり」があります。絵の右下には「塔中」が見えます。 江戸名所図会の本文には、「舊(もと)天澤寺(てんたくじ)と称せしが、春日局(かすがのつぼね 三代将軍家光の乳母)の法号を取って麟祥院とあらたむ」、本尊は釈迦如来で、「本願(ほんがん 創立した人を表す本願主のこと)は春日局なり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。
なお、麟祥院の前の道は春日局に因み春日通りと呼ばれています。 |
上の 根生院(こんしょういん)の挿絵の右上に根生院の「本堂」があります。 左右に走る広い道は春日通りです。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた根生院は上の地図の緑色の楕円の辺りにあったようですが、現在は豊島区高田に移転しています。現在の根生院の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の錦帯圓(きんたいえん)の挿絵には右のように書かれています。 上の挿絵の看板には「万病錦帯圓 勧学屋大助」、「勧学屋 本元金袋圓 大助」とあります。この薬屋は、格子を挟んで商いをしていたことが分かります。 |
池の端(はた)仲町勧学屋(かんがくや)大助(たいすけ)是を製(せい)す。其の始祖(しそ)勧学坊(かんがくぼう)了翁(りょうおう)僧都(そうず)、一代蔵経(いちだいぞうきょう 仏教の経典の総称)建立(こんりゅう)の志願(しがん)によりて、正保三年(1648) 摂(摂津の国)の勝尾寺(かちおでら)および、和州(大和の国)長谷寺(はせでら)、洛陽(京都のこと)清水寺(せいすいじ)等の大悲の尊前(そんぜん)に参籠(さんろう)して、指灯(しとう)を燃やし、一篇(いっぺん)の願書をこめ奉る。その翌(あくる)年、 彼(かの)一指(いっし)大(おほい)に腫(はれ)て、苦痛堪えがたし。時に夢中(むちゅう)、肥前州(ひぜんのくに)興福禅刹(こうふくぜんさつ)の開山如定(にょじょう)禅師、錦袋(きんたい)のうちより一霊薬を取出して授けらるると見(みゆ)る夢覚めて後、速(すみやか)に彼(かの)薬を製して服せしかば、その指の病、頓(とみ)に愈(いへ)ぬ。其後、衆人の患者(うれふるもの)に用(もちひ)るに、 百人必ず百癒せずと云ふことなし。ここに於いて、この地に店を開き、万病錦袋円(まんびょうきんたいえん)と号(なづ)け、彼(かの)霊薬を製し鬻(ひさ)ぎて竟(つひ)に其価(そのあたえ) の余計(よけい)をもって一切経建立の料(りょう)に充(あて)、志願(しがん)の全(まった)きことを得たりといへり。 |
上の挿絵は、 東叡山黒門前(とうえいざん) 忍川(しのぶかわ) 三橋(みはし)です。中央に三橋があり、中央広い道は下谷広小路です。中央左下から右上に、不忍池につながる忍ぶ川が流れています。 画面中央には「しのぶ川」、「三はし」があり、その左には、「二王門跡」、「下馬」があります。左下の町並みは「仲町」となっています。「三はし」の左側の町並みには「此辺薬屋多し」とあります。黒門は、二王門跡の左に側に当たりますが、この絵には明示されておらず、下の絵に描かれています。 |
この辺りは下谷広小路と呼ばれていました。この広い道は、類焼防止のための火除け地であり、また、将軍が上野寛永寺に参詣する時の御成道でもありました。現在の上野広小路です。 |
上の挿絵は、忍はすの池(しのばずのいけ) 中島弁財天(なかじまべんざいてん)です。一つ上の欄の絵につながっています。 挿絵の中央に、「弁天]、[聖天」、「こま堂」があります。池の向こう岸の先に「穴のいなり」があり、その右に「黒門」があります。遠景には右から、「山王」、「清水」、「山門」、「中堂」があります。 この池は、上野台地が忍岡(しのぶがおか、しのぶのおか)と呼ばれたことから、江戸時代以前から不忍池と呼ばれていたようです。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。
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上の、不忍池(しのばずのいけ) 蓮見(はちすみ)の挿絵には、次のように書かれています。 不忍池は江府(えど)第一の蓮池(れんち)なり。夏月(かげつ)に至(いた)れば荷葉(かよう)累々(るいるい)として水上(すいじょう)に蕃衍(はんえん)し、花は紅白(こうはく)色(いろ)をまして芬芬(ふんぷん)人を装う。蓮(はちす)を愛するの輩(ともがら)凌晨(しののめ)を殊更(ことさら)の静観(せいかん)とす | |
上の挿絵は、東叡山寛永寺(とうえいざん かんえいじ) 桜が峯(さくらがみね) 山王社(さんのうのやしろ)です。この絵に続く5枚の絵はパノラマのように繋がっています。 何枚か上の不忍池の絵にある、「黒門」の先(北側)から「中堂」迄が詳細に描かれていることになります。 挿絵には、次のように書かれています。 山内(さんない)桜木(さくら)多き中にも、此辺(このへん)を桜が峯(さくらがみね)と号(ごう)し、其むかし羅山先生(らざんせんせい)栽(うう)るところなるよし、鵞峰文集(がほうぶんしゅう)にいえり 挿絵の左に「山王」、その後ろに「いなり」、「棍生明神?」があり、中央下には「黒門」があります。遠景には左から、「観音」、「浅草」、「門跡」、「下谷」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。絵にある山王社は現在存在しませんが、地図の赤い円の辺りでした。現在そこには西郷隆盛の像があります。 寛永寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の、 其二 清水観音堂(きよみずかんのんどう) 秋色桜(しゅうしきさくら)の挿絵には以下のように書かれています。 秋色桜は清水堂の御供所(ごくうしょ)構(かまえ)の内、井のかたわらにあり。花は一種(いっしゅ)にして虎尾(とらのお)と称(しょう)するもの是(これ)なり。中頃(なかごろ)江府(えど)の商戸(しょうこ)某(なにがし)の女(むすめ)秋色(しゅうしき)といえるもの、花のころここに来たり、「井戸(いど)ばたの 桜あぶなし 酒(さけ)の酔(よい)」といえる秀句(しゅうく)ありしより、名づくるとなん 木のもとに 汁も鱠も さくらかな 芭蕉 挿絵の右手前から順に「秋色桜]、[御供所」、「観音堂」とあり、中央上に「本覚院」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。
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上の 其三には、中央の少し下に、「文殊楼」、「大仏」、「吉祥天、七面」、「時のかね」、「番所」があり、さらに右下には「穴稲荷道」とあります。画面上部には、右から、「凌雲院」、「「車坂」、「四軒寺町」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在、文殊楼はありません。
時の鐘は、江戸時代、庶民に時間を知らせるための手段でした。
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上の 其四には、右側に「常行堂」、「法華堂」、手前に「鐘楼」があります。さらに進むと「勅額門」、その先が「中堂」です。勅額門の前の左右には「輪蔵「、「雲水塔」があり、それぞれに「番所」があります。本堂の前には「石楠」、「竹台」があります。遠景には右から「屏風坂」、その左に「慈眼堂」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在、常行堂、法華堂はありません。ここは、今、噴水公園になっています。
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上の 其五の挿絵には、右手前に「寒松院」があり、右上から左へ順に、「こま堂」、「大師堂」、「御玄関」、「御本坊」、「庫裏」があり、右下には、「亀子松」、「弁天」、「児いなり」、「二本杉」、「日長原」、「寒松院」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。挿絵の上中央辺りは、現在、東京国立博物館になっています。
寛永寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 挿絵の右下にある寒松院は、現在の東京技術大学美術学部の辺りにあったようですが、現在は、東京国立博物館の東側で開山堂の北側に移っています。 |
上の挿絵は、忍岡稲荷社(しのぶのおかいなりのやしろ)です。当時は穴稲荷とも呼ばれたようですが、現在の花園稲荷に当たります。 |
忍岡稲荷社、現在花園稲荷神社と呼ばれ、上の地図の赤い円の辺りにあります。
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上の挿絵は、 東叡山(とうえいざん) 勧学寮図(かんがくりょうのず)です。 当山の檀所だったそうです。 | |
上の挿絵は、 開山堂 法華八講(ほっけはっこう)です。 |
開山堂は、上の「其四」の欄に、慈眼堂として書かれています。 |
上の、両大師遷座の 挿絵には以下のように書かれています。 月毎(つきごと)の晦日(みそか)には、両大師(りょうだいし)の御影を次の院(いん)遷座(せんざ)なし奉(たてまつ)る 。是(これ)を将迎(おくりむかえ)奉(たてまつ)らんとて、江府(えど)遠近(えんきん)の諸人(しょじん)群参(ぐんさん)して道路(どうろ)に溢(あふ)る。実(じつ)に此地(このち)熱?(にぎやか)の中(うち)最(もつ)とも首(しゅ)なるへし | |
上の、 清水堂(きよみずどう) 花見図(はなみのず)の 挿絵には、次のように書かれています。 上野清水堂にて 鐘かけて しかもさかりの 桜かな 室井其角 |
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上の、正月三日 大黒詣(だいこくもうで)の挿絵には以下のように書かれています。 毎歳(まいさい)正月三日は都下(とか)の諸人(しょじん)東叡山(とうえいざん)護国院(ごこくいん)の大黒天(だいこくてん)へもうづ。此(この)御影(ごえい)は土佐の信実(しんじつ)筆なり。世(よ)に霊験(れいげん)著(いちじる)し。此の日供物(くもつ)の鏡餅(かがみもち)を湯(ゆ)にひたして参詣(さんけい)の輩(ともがら)にあたう。俗(ぞく)是(これ)を呼(よん)で御福の湯(ごふくのゆ)という | |
蛍澤(ほたるさわ)の挿絵には以下のように書かれています。 谷中(やなか)宗林寺(そうりんじ)の境内(けいだい)にあり、。又、妙林寺(みょうりんじ)の池をも蛍沢(ほたるさわ)と唱(とな)う。すべて此辺(このあたり)蛍(ほたる)の光(ひかり)他に勝(まさ)れたり 草の葉を 落るより飛 ほたるかな 芭蕉 | |
谷中感応寺(やなか かんのうじ)の挿絵では、中央の道が「芋坂口」で、「惣門」があります。 上の挿絵は、左側で次の挿絵に続いています。 其一の挿絵では、右側から左上に向かう参道の先に「本堂」があります。 近景の右から左に「瘡守(かさもり)いなり」、「長安寺」、「寿老人」があります。左側中央に「西門」、「重明墓」があります。本堂周辺には、「星降梅」、「風呂屋」があります。挿絵の右上に「裏門」、「いなり」、「番神」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。感応寺は1833年に天王寺と名前を変えており、江戸名所図会は旧名を使っています。
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日暮里(ひぐらしのさと)総図 其一の挿絵には、上側に「本行寺」があり、その周りに「ものみ塚」、「碑」、「番神」があります。 其二の挿絵では、画面右側の上から下へ、「経王寺」、「海翁塚」、「七面宮」、「方丈」、「長相寺(長明寺の誤りか?)」、「宗林寺」があります。左側の画面には上から下へ、「養福寺」、「百観音」、「南泉寺」があります。 其三(挿絵では其一)には、右側上に「浄光寺」、「本堂」、「御腰掛所」、「神明」があり、中央上から下へ「すわ明神」、「番神」、「西隆寺」があります。また、あちらこちらに「茶や」があります。 其四の画面右の上から下へ「日光山」、「こんぴら」、「舟つなぎ松」、「えびす」、「観音」、「青雲寺」、「修性院」があります。画面左上側には「ほてい」、「道灌山」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。史跡の場所を丸数字で示しています。
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道灌山(どうかんやま)聴蟲(むしきき)の挿絵には、次のように書かれています。 文月(ふみつき)の末(すえ)を最中(さかり)にして、とりわき名にしおう虫塚(むしつか)の辺りを奇絶(きぜつ)とす。詞人(しじん)吟客(ぎんかく)ここに来(きた)りて終夜(よもすがら)その清音(せいおん)を珍重(ちんちょう)す。中にも鐘児(まつむし)の音(こえ)は勝(すぐれ)て艶(うるわ)しく、莎鶏(はたおり)紡織娘(きりぎりす)のあはれなるに、金琵琶(すずむし)の振捨(ふりすて)かたく、思(おも)はす有明(ありあけ)の*を待**も一興(いっきょう)とやいはん まくり手に すずむしさがす 浅茅かな 其角 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた道灌山は、上の地図の緑色の楕円の辺りを指したものと思われます。JR山手線の内側の丘陵地帯です。 |
巻之五 玉衡之部
第十四冊 神田、上野、谷中、日暮里 (このページです)
第十五冊 根津、駒込、王子、豊島、川口 (準備中)