アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之七 第十八冊
江戸名所図会(えどめいしょずえ)の巻之七の中のページ
第十八冊 富岡、深川、本所、亀戸、押上 このページです
第十九冊 隅田川東岸、葛西、柴又
第二十冊 行徳、国府台、真間、船橋 (準備中)
江戸名所図会 巻之七 揺光之部部 第十八冊
江戸時代の風景 | 今の様子と図の説明 |
「五元集」 永代島 八幡宮奉納 上の挿絵の右下から左上に向かって、「蓬莱橋」、「茶や」、「二の鳥居」、「表門」があり、門を入りすぐ右から反時計回りに「六地蔵」、「茶や」、「五本桜」、「そりはし」、「宮本」、「番屋」があります。右上にあるのは「三十三間堂」です。 上の挿絵以下3枚は、富岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)と永代寺(えいたいじ)を東から順に描いています。当時、富岡八幡宮と永代寺は川に囲まれており、ここは永代島と呼ばれていました。絵にも川の一部が見えます。 以下の3枚の挿絵はパノラマになっています。 |
江戸名所図会の3枚の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。永代島の北を流れていた川は首都高速9号線になり、永代島の西の川は清澄通り(地下鉄大江戸線)になっています。永代島の南側の川は埋め立てられその痕跡は見えませんが、永代島の東側の川は八幡堀遊歩道になっています。 左の一枚目の絵の中央に、少し斜めに流れている川が見えます。その手前の廣い道は現在の永代通りです。更に手前にも川(大島川 現在の大横川)があり船着場が見えます。永代通りに「二の鳥居」があり、そこから「表門」を通り左上に参道が伸びています。本堂は次の「其二」の絵に書かれています。絵の右上に「三十三間堂」があります。三十三間堂はこの数段下の欄にも書かれています。なお、一の鳥居は、絵には描かれていませんが、現在の永代通りと清澄通りの交差する辺りにあったようです。 江戸名所図会では「ニの鳥居」が永代通りにありますが、現在の鳥居は永代通りから2、3十メートル奥に入ったところにあります(右上地図の赤の楕円の辺り)。今回訪問した時は鳥居の辺りは工事中でした。 |
絵の右中央から左に伸びている道が参道で、その先に「本社」があります。川が絵の中央より少し下をクランク状に流れています。 「本社」から参道が右に延び、上の絵の参道につながっています。 「本社」の上から時計回りに、「杉本」、「いせや」があり「二軒茶屋」と呼ばれていました。更に、「弁天」、「御供所」、「神楽所」、「太子」があります。挿絵の左下には「裏門」、「聖天」が見えます。挿絵の中央には「水や」、「神*」、「えんま堂」があり、挿絵の右上には「富岡」、「観音」があります。 |
右の写真は、富岡八幡宮の本殿です。江戸名所図会では「本社」と書かれています。富岡八幡宮の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 本社は上の地図のオレンジ色の楕円の辺りです。 右は、七渡(ななわたり)弁天社です。江戸名所図会の其二の本社の東側(本社の右上)にある「弁天」に該当するものと思われます。右上の地図の茶色の楕円の辺りです。 |
上の絵の右端の石垣は、「其二」の本社の周りの石垣の続きです。左側には別当である「永代寺」があります。挿絵の右上から下に「二間茶や」、「は*しや」、「花園門」があります。 江戸名所図会の本文では「富岡八幡宮について「深川永代島にあり、別当は真言宗にて大栄山金剛心院永代寺と号す・・・」とあります。この辺りが永代島と呼ばれたことにより永代寺という名前が付いたようです。 |
右の写真は現在の永代寺です。江戸名所図会に描かれた永代寺は、明治の神仏分離で廃寺となりました。しかしその後、旧永代寺の塔頭(たっちゅう)の吉祥院が名称を引き継ぎ、永代寺として再興されたのが現在の永代寺です。永代寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 永代寺は場所も少し富岡八幡宮寄りに移り、現在、上の地図の水色の楕円の辺りにあります。 右の写真は江戸名所図会の時代に永代寺のあった場所で、現在深川公園になっています。右上の地図の水色の破線の楕円の辺りです。 江戸名所図会其三の中央部分は現在の深川不動堂のある所かと思われます。右の写真は深川不動堂です。右上の地図の黄色い楕円の辺りにあります。江戸名所図会では、富岡八幡宮其二の左ページのほぼ中央辺りに「不動」と書かれています。深川不動堂の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
毎年三月廿一日より同廿八日迄のうち、林泉(りんせん 泉や林を活かした庭園)を開きて諸人に見せしむ。 |
富岡八幡宮や永代寺の辺りの町は門前仲町と呼ばれます。これは、富岡八幡宮の門前ではなく、永代寺の門前という意味です。永代寺は江戸時代にはこのように広大な寺域を持っていました。 江戸名所図会の挿絵に書かれたように、永代寺は、山開きと称して日を限って林泉を公開しました。それは大変な賑わいだったようです。 |
此の地は、江都(江戸)東南の佳境にして、月に花に四時(しいじ 四季)の勝趣(しょうしゅ)多かる中に、取りわきて初雪の頃などには都下の騒人ことに集い来つつ、亭中の静閑を賞し一杯を酌みかはしては酔興のあまり、冬籠もる梅の木(こ)の下、秋ならば尾花苅りたき、一夜 (ひとよ)の夢を結ぶもまた多かりぬべし。 |
江戸名所図会の「富岡八幡宮の其二」の挿絵の「「本社」の上に「二軒茶屋」と呼ばれた「いせや」と「松本」が見えます。ここでいう二軒茶屋、伊勢屋と松本楼です。 |
「五元集」 新三十三間堂にて |
この三十三間堂は、京都の三十三間堂を模した仏堂で、京都同様、通し矢が行われていましたが、明治時代に廃止されました。上の地図の紫色の楕円の辺りにありました。 |
上は洲崎(すざき)弁財天社です。絵の中央に洲崎弁財天社があり、手前は江戸湾で、上側を大横川が流れ、その向こうは「木場」です。 江戸名所図会の本文には「同所(富岡八幡宮のこと)の東の方、洲崎(すざき)にあり、別当を吉祥院(きちしょういん)と号す。云々」とあり、「此の地は海岸にして佳景なり。殊更弥生の潮昼(しおい)には都下の貴賎、袖を連ねて真砂の文蛤(はまぐり)を捜(さぐ)り、または、楼船(ろうせん)を浮かべて妓婦(きふ)の弦歌(げんか)に興(きょう)を催(もよお)すものありて、尤(もっと)も春色を添うるの一奇観たり。又、冬月(とうげつ)千鳥にも名を得たり」とあります。 |
江戸名所図会に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は洲崎弁財天社(現在の洲崎神社)の本殿です。洲崎神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
上の絵は、砂村(すなむら)富岡元(とみおかもと)八幡宮です。 上の挿絵には、「洲崎弁財天より十八丁あまり東の海浜にあり。深川八幡宮の旧地なりと云えり」とあります。絵の説明にもあるように、富岡八幡宮は元はこの場所にあったようです。 |
江戸名所図会に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
橋台に 菜の花咲けり 舟渡し 宗瑞 |
江戸名所図会の時代の木場は、上の地図の緑色の楕円の辺りだったようです。 木場は江戸への木材の貯木場でした。当時の江戸は火災が多く、各地から大量の木材が運び込まれ、大変活気があったようです。昭和の時代に、貯木場としての役割は新木場に移り、かつての貯木場は木場公園となりました。 |
海福寺(かいふくじ) 上の挿絵の左側から門をくぐり参道があります。左の池(堂前池)の畔に「九重の塔」があり、参道の右に「鐘楼」があります。正面には「天王殿」があり、その先の参道を途中で左に曲がると「仏殿」です。その右には、「石門」、「方丈」があります。更に、左奥には「増林寺」が見えます。 江戸名所図会の本文によると、絵の中の説明に書かれている「石の塔」とは「九重の塔」のことです。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 左の絵で、左下の広い道は現在の清澄通りです。海福寺は現存せず、その敷地は明治小学校になっています。 左の絵の左奥に小さく書かれている増林寺の現在の様子は右の写真です。増林寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
上の挿絵の右側に「霊雲院」があります。手前の川は隅田川で、左から右上に流れている川は小名木川(おなぎがわ)です。左の奥の方に「神明宮」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。視線(青い矢印)の手前が霊雲院で、遠くに「神明宮(現 深川神明宮)があります。なお、霊雲院は現存していません。 右は本殿です。深川神明宮の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
古池や 蛙飛び込む 水の音 桃青 江戸名所図会の本文には「芭蕉庵(ばしょうあん)旧址(きゅうし)」の説明として以下のように書かれています。 同じ橋(萬年橋のこと)の北詰、松平遠州候の庭中にありて、古池の形今猶存せりといふ。延宝(えんほう)の末、桃青翁(とうせいおう)伊賀国より始(はじめ)て大江戸に来り、杉風(さんぷう)の家に入、後剃髪して素宣(そせん)と改む。又、杉風子より芭蕉庵の号(な)を譲請(ゆずりうけ)、夫(それ)より後、此地に庵を結び、泊船堂(はくせんどう)と号す。[杉風子、俗称を鯉屋(こいや)籐左衛門といふ。江戸小田原町の魚牙子(なやこ)たりし頃のいけすやしきなり。後、此(この)業(わざ)をもせざりしかば生洲(いけす)に魚もなく、自(おのずから)水面に水草覆(おお)ひしにより古池の如くになりしゆへに古池の口ずさみありしといへり]・・・。 芭蕉は、泊船堂、素宣、桃青、他の幾つかの俳号を使い分けたようです。 |
松尾芭蕉(寛永21年(1644年)~元禄7年(1694年))は、延宝8年(1680年)に深川に移り住みました。芭蕉稲荷の説明板他によると、芭蕉は、杉山杉風から草庵を提供され延宝八年(1680年)から大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の句を多数残し、またここから全国の旅に出て「奥の細道」等の紀行文を著しました。芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり芭蕉庵は失われました。しかし、大正時代の災害復旧工事の際、この辺りで石の蛙が見つかり、ここが芭蕉庵の跡であると考え、芭蕉稲荷を祀ったのだそうです。その後、ここが手狭なためこの少し北に芭蕉記念館を立て現在に至っています。 芭蕉庵跡地とされている芭蕉稲荷神社は上の地図の緑色の辺りです。芭蕉記念館は赤い楕円の辺りです。また、青い楕円の辺りは芭蕉庵史跡展望庭園です。 右は深川芭蕉稲荷神社です。ここに、芭蕉庵跡石碑他芭蕉の関連碑が置かれています。深川芭蕉稲荷神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
本所(ほんじょ)弥勒寺(みろくじ)の挿絵です。右側の斜めの道は「竪川(たてかわ)二の橋(にのはし)通り」となっています。竪川二の橋通りから参道が「本堂」に続いています。絵の上を直角に流れる川は五間堀川です。 弥勒寺の敷地の五間堀川側のニ区画は「塔中(たっちゅう)」と書かれています。これは塔頭(たっちゅう)とも書きますが、寺院内の小寺院で、昔は6寺院ほどあったようです。 |
左の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の辺りです。絵の「竪川二の橋通り」とは、現在の清澄(きよすみ)通りです。五間堀川は既に埋め立てられていますが、現在も、右の地図で分かるように、川の流れが公園、道路などになって当時の地形が残っています。 右は、弥勒寺です。江戸名所図会の時代よりもかなり狭くなっているようで、左の絵の本堂のある一角だけが残っているように見えます。なお、この写真は、北側から、つまり、旧五間堀川の側から撮っています。 右は、弥勒寺の本堂です。弥勒寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 右は、龍光院です。江戸名所図会の絵の塔中のうちの一つで、東側(絵の左側)の「塔中」と書かれた区画に残っています。龍光院の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。なお、他に二院残っています。 |
上の挿絵には、本所(ほんじょ)一目(ひとつめ)の弁財天、深川八幡御旅所か書かれています。 手前の大きな川は隅田川(大川)、交わっている川は竪川(たてかわ)です。竪川に架かっている橋は「一の橋」です。絵の中央には「弁天」があり、手前に「金ぴら」右奥に「いわや」と見えます。絵の右上に「八まん」があります。 江戸名所図会の本文には、深川八幡御旅所について「大川端(隅田川)大船倉の前にあり、富賀岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)祭礼の砌(みぎり)は神輿(みこし)此の地へ渡らせらる」とあります。 また、弁財天については「同所一の橋の南の詰(つめ)にあり、祭所(まつるところ)相州(そうしゅう 相模国)江嶋(えのしま)に同じ云々」とあります。 それに続く説明をまとめると、盲目の鍼灸師杉山検校が、江の島の岩窟で祈願し弁財天の霊験で鍼術を得ることができ、杉山流の鍼術を創始しました。後に本所一つ目に広い土地を与えられ(1693年)、その敷地に弁財天を建立したのが、この江島杉山神社のはじまりだそうです。 |
左の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の辺りです。絵の「一の橋」は現在も一の橋で右図の黄色いところです。一の橋を通っている道は万年橋通りです。「弁天」とあるのは現在の江嶋杉山神社で右図では赤で表示してあります。「八まん」は深川八幡御旅所で、右図の青の辺りにあったようですが現存しません。 右の写真は一の橋です。現在、竪川の上は首都高速7号線が走っています。 右の写真は江島杉山神社の一の鳥居です。万年橋通りに面しています。 右は江島杉山神社の本殿です。本殿の位置は江戸名所図会の時代とほぼ同じかと思われます。江島杉山神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
上は両国の回向院(えこういん)です。 回向院については、江戸名所図会の本文に「明暦三年丁酉(1657年)の春大火の時焼死の輩(ともがら)の冥魂(めいこん)追福のため、毎歳(まいさい)七月七日大施餓鬼法会(おおせがきほうえ)を修行す云々」とありますように、明暦の大火の犠牲者を供養するために創立されました。なお、その後も無縁仏・刑死者などを弔ったのだそうです。また、供養のため、勧進相撲がしばしば興行され,旧国技館につながったようです。 江戸名所図会の挿絵には、右側に「表門」、参道を進み「本堂」があり、参道の右側に「一言観音」があります。 |
左の挿絵の回向院の絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在の回向院の表門は北側にありますが、江戸名所図会の時代の回向院の表門は西側にありました。 右は、 回向院の本堂です。近代的なデザインです。回向院の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
諸国の霊仏(れいふつ)霊神(れいしん)等結縁(けちえん 仏神とつながること)のため、大江戸に出て啓龕(かいちょう 注↓)せんと欲(す)るもの、多くは当院に於いて拝せしむ。諸方より便(たよ)りよき地なる故(ゆえ)殊に参詣多し。 | |
猿江(さるえ)泉養寺(せんようじ)の池頭(いけ)に生ずるところの蓮花(はちす)は、重弁(ちょうへん)紅花(こうか)にして花形牡丹に髣髴(さもに)たり。ゆえに奇観とす。 寛政九年の晩夏、はじめてこの花を発(ひら)きしより、いまに至り年々(としとし)にしかり。 |
左の挿絵に描かれた泉養寺は市川市に移転しており、この地にはありませんが、上の地図の緑色の楕円の辺りにあったようです。 泉養寺は、深川神明宮の別当であり、著名な寺だったようですが、昭和の初期に市川市国府台に移転し、猿江にはありません。 泉養寺のホームページによると、慶長元年(1596年)に深川元町に開創されましたが、元禄六年(1693年)に深川猿江に移転し、その境内には立派な蓮池があり、牡丹蓮と呼ばれる重弁のめずらしい蓮を見に多くの人々が訪れたそうです。しかし文政の浅草の火災、安政、慶応の大洪水、大正の洪水と数々の罹災があり、更に大正十二年(1923年)の関東大震災による火災によってすべてが灰燼となってしまい、昭和二年、現在の地に移転したそうです。 |
猿江(さるえ)摩利支天祠(まりしてんのほこら) 霊験炳然(いちじるし)とて、詣人(けいじん)常(つね)に絶えず。来由は、拾遺江戸名所図会によってみるべし。 (注) 拾遺江戸名所図会というのは、刊行予定はあったものの結局出版されなかったようです。 |
左の挿絵に描かれた猿江摩利支天祠は、現在の日先(ひのさき)神社に当たりますが、江戸名所図会の面影はありません。上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右の写真は、現在の日先(ひのさき)神社です。日先神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
小名木川(おなぎがわ)五本松(ごほんまつ) 深川の末、五本松といふところに船をさして |
左の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思います。 右の写真は、四ツ目通りの小名木川橋北詰東にある五本松跡の碑で、右上の地図の赤い円のところです。 右は、五本松跡の碑から河岸に下り、東側を向いて撮った写真です。江戸名所図会の絵に近いアングルです。この道は最近整備されたようです。 |
其ニの中央辺りに五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ)の「本堂」があり、その両脇に「東羅漢堂」と「西羅漢堂」があります。 本堂の前に「天王殿」、その左に「さざい堂」があります。 江戸名所図会の本文には「 天海山五百大阿羅漢禅寺 本所五目(いつつめ)竪川(たてかわ)より南にあり、黄檗宗の禅林にして河東(かとう)第一の名藍(めいらん)たり。開山は鐵眼禅師、中興は云々」と説明が続いています。 さざい堂は三匝堂と書き、正式には「さんそうどう」と読みます。3回巡る堂の意味で、内部が3層の螺旋状をしており、その形状がサザエのようであることから「さざえ(さざゐ)堂」として知られていたそうです。 |
上の地図の緑色の楕円の位置に羅漢寺がありますが、江戸名所図会に書かれた五百羅漢寺とは違うお寺のようです。 右の写真は現在の羅漢寺です。江東区にある現在の羅漢寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 右は現在の羅漢寺の新大橋通りを挟んだ向かいにある五百羅漢寺跡です。 元の羅漢寺は、安政の大地震で羅漢像、三匝堂などが壊れて荒廃していましたが、明治時代に、羅漢像などと共に墨田区へ、更に目黒に移転し、現在、目黒のらかんさんとして親しまれています。現在の目黒の五百羅漢寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
五百羅漢とは、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説では、以下のようになっています。 江戸名所図会のこの五百羅漢寺の項にも、五百大阿羅漢尊号として五百人の羅漢の名前が記されています。 | |
上の、亀戸(かめど)宰府天満宮(ざいふてんまんぐう)の挿絵には「当社(とうしゃ)の門前(もんぜん)貨食店(りょうりや)多(おお)く、各(おのおの)池州(いけす)を構(かま)え鯉魚(りぎょ)を畜(か)う。業平蜆(なりひらしじみ)もこの地(ち)の名産(めいさん)にして、尤(もっとも)美味(びみ)なり」とあります。 其二の挿絵には、左上に「本社」があり、本社の右側の塀の内側に「紅梅神」、「手水や」、「神楽所」があり、本社の左には「老松宮」、「牛やとり」、「こんぴら」がります。本社から池に向かうと「けい門」があり、池の中に「頓宮」、「連歌や」、「花その」、「藤棚」、右下に「惣門」があります。池の右には「ひやうすへ神」、「とん宮」があり、池の左には「うら門」、「茶屋や」があります。 江戸名所図会の本文には、宰府天満宮(ざいふてんまんぐう)の項に「亀戸村(かめどむら)にあり、故(ゆえ)に亀戸天満宮(かめどてんまんぐう)とも唱(とな)う」とあります。又、その他、紅梅殿(こうばいでん)、老松殿(おいまつでん)、けい(王偏に敬)門(けいもん)、花園社(はなぞののやしろ)、頓宮明神(とんぐうみょうじん)、兵洲邊神祠(ひょうすへのしんじ)、連歌家(れんがや)などの説明があります。 |
左の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思います。 右は、亀戸天神の境内マップです。亀戸天神のサイトから拝借しました。 右は、亀戸天神の鳥居で、境内マップの下(手前)の鳥居です。江戸名所図会の挿絵では、総門の位置に当たるようです。鳥居の向こうに見える橋は太鼓橋男橋(マップの1)です。挿絵の太鼓橋と同じ位置にあるようです。 右は境内マップの2の太鼓橋女橋で、拝殿側から見ている写真です。江戸時代は太鼓橋ではなかったようです。 右は拝殿です。亀戸天神の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
二二月二十五日 菜種神事(なたねのしんじ)の挿絵には「梅松や あがむる数も 八百所 其角」とあります。 | |
亀戸天満宮祭礼(かめどてんまんぐうさいれい) 神輿渡御行列之図(じんよとぎょぎょうれつのず)の挿絵には、「毎歳(まいさい)八月二十四日北松町(きたまつちょう)の御旅所(たびしょ)へ神幸(しんこう)ありて行粧厳重(ぎょうそうげんちょう)なり。産子(うぶこ)の町も練物(ねりもの)を出し都鄙(とひ)の貴賎(きせん)群集(ぐんしゅう)して此辺(このへ)の一盛事(いっせいじ)なり」とあります。 其二の挿絵は、上の挿絵の左につながっています。 | |
普門院(ふもんいん)の挿絵には、本殿の前に「御腰掛松」が見えます。手前には「表門」、「慈眼水」があります。 |
左の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思います。 右は、普門院です。挿絵では、表門は南を向いているようです。しかし、現在は挿絵と異なり、本堂の東側に門柱があります。 右は、普門院の本堂です。東側を向いていますので、挿絵と同じ方向です。なお、現在腰掛松らしきものは見当たりません。普門院の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
亀戸邑(かめどむら)道祖神祭(どうそしんまつり)の挿絵には「毎歳(まいさい)正月十四日にこれを興行(こうぎょう)す。此地(このち)の童子(わらわべ)多(おお)くあつまりて、菱垣造(ひがきつくり)にしたる小(ちいさ)き舟に色彩(いろいろ)の幣帛(みてぐら)を建(たて)、松竹様をも装飾(そうしょく)し、其(その)中央(ちゅおう)に宝船(たからぶね)といえる文字(もんじ)を染(そめ)たる幟(のぼり)を建(たて)たるを荷ない、同音(どうおん)に唄(うた)い連(つれ)て此辺(このあたり)を持歩行(もちある)けり。其夜(そのよ)童子(わらわべ)集会(しゅうかい)して遊(あそ)び戯(たわむ)るるを恒例(こうれい)とす」とあります。 | |
梅屋敷(うめやしき)の挿絵には「白雲の 龍をつつむや 梅の花 嵐雪」とあり、また、「如月(きさらぎ)の花盛(はなざかり)には容色(ようしょく)残(のこり)の雪(ゆき)を欺(あざむ)き余香(よこう)は芬々(ふんぷん)として四方(よも)に馥(かんば)し。また、花(はな)の後実(のちみ)をむすぶを採収(とりおさめ)て日に乾(かわか)し塩漬(しおづけ)として常(つね)にこれを賈(あがな)う。味(あじわ)い殊(こと)に甘美(かんび)なれはこゝに遊賞(ゆうしょう)する人かなら沽(かう)て家土産(いえつと)とす」とあります。 |
左の挿絵に描かれたところは、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思います。 |
上は、入神明宮(いりのじんめいぐう)太平榎(たいへいえのき)の挿絵です。 |
左の挿絵に描かれたところは、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思います。 |
香取大神宮(かとりだいじんぐう)の挿絵には、右上に「本社」があり、その奥に「神木」が見えます。画面中央には「金ひら」があります。 |
左の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りかと想像されますが、正しいかどうか分かりません。緑の楕円の南の端(蔵前橋通り)に、現在、亀戸香取神社(香取太神宮)の一の鳥居(勝矢門)があるのですが、そこが挿絵の端かどうかが判断できないためです。なお、赤い丸は拝殿で、この位置は変わっていないのだろうと想像します。 蔵前橋通りから南へ香取勝運商店街を200m余り進むと、右のような二ノ鳥居があります。 右は、拝殿です。亀戸香取神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
亀戸邑(かめどむら)常光寺(じょうこうじ)の挿絵には、「亀戸邑(かめどむら)の常光寺(じょうこうじ)は江戸(えど)六阿弥陀回(ろくあみだめぐり)の第六番目なり。春秋(はるあき)二度(にど)の彼岸中(ひがんちゅう)都鄙(とひ)の老若(ろうにゃく)参詣(さんけい)群集(ぐんしゅう)せり」とあります。 |
左の挿絵に描かれた浄光寺は、現在、上の地図の緑色の楕円の辺りにあります。 右は、常光寺です。本尊は阿弥陀で、挿絵に書かれているように、江戸阿弥陀巡礼の6番目で、六阿弥陀と呼ばれたそうです。 右は、常光寺の本堂です。常光寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
吾嬬森(あずまのもり)吾嬬権現(あずまごんげん)連理樟(れんりのくす)の挿絵には、「鳥がなく あずまの森を 見わたせば 月は入江の波ぞ しらめる 藤原恭光入道」とあります。又、「此(この)和歌(わか)は、戸田茂睡入道(とだもすいにゅうどう)のあらはせし鳥の跡(とりのあと)といへる和歌(わか)の集(しゅう)に載(のせ)たりし自(みずから)の詠(えい)なり。そのはしにこの吾妻(あずま)の森(もり)は東人(あずまひと)といえるが住(すみ)し所なりとあり。この東人いかなる人にや、いまだ考えす」とあります。 挿絵の左側に「本社」があり、その右に「神木樟」、左に「いなり」がみえます。手前の川には「十間川」とあります。 |
左の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。吾嬬権現は現在吾嬬神社と呼ばれています。 右は、横十間川(挿絵の十間川)の堤の道にある鳥居です。挿絵と同じ位置にあるようです。 右は、拝殿です。吾嬬神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 拝殿の左に、右のような、吾嬬の森の碑と説明板があります。説明板によると、この周囲は吾嬬の森と呼ばれていたのですが、明治以降、大水、関東大震災、空襲などにより失われたとのことです。 神木の 連理の樟が江戸名所図会の挿絵に書かれていますが、右の写真に見える連理だったらしい枯れ木(右側の枯れ木)が、それのようです。 |
この挿絵には「日本武尊(やまとたけるのみこと)東夷(とうい)征伐(せいばつ)したまう時相模国(さがみのくに)より上総国(かみつふさのくに)に征(ゆ)かんとしたまいし。其(その)海上(かいじょう)暴風(あかしまかぜ)忽(たちまち)に起(おこ)り、王船(みふね)漂蕩(ただよう)と危(あやう)かりしかば、妾(みめ)弟橘姫(おとたちばなひめ)自(みずから)の御身(おんみ)をもて贖(あがな)い尊(みこと)の命(いのち)をたすけまいらせんことを海神(わたつみ)に誓(ちか)い竟(つい)になみをわけて入(いり)たまいぬることは日本紀(にほんき)にみえたり」とあります。 | |
龍眼寺(りゅうがんじ)の挿絵には「庭中(ていちゅう)萩(はぎ)を多(おお)く栽(うえ)て中秋(ちゅしゅう)の一奇観(いつきかん)たり。故(ゆえ)に俗(ぞく)呼(よん)で萩寺(はぎてら)と称(しょう)せり。万葉集(まんようしゅう)芳子(はき)に作(つく)り、和名抄(わみょうしょう)鹿鳴(はき)草に作る。続日本後記(ぞくにほんこうき)に・・・」とあります。 |
左の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、龍眼寺(りゅうげんじ)の山門です。門柱には萩寺の表示があります。 右は、境内です。奥へ進むと、今でも萩がたくさん植えられています。 右は、本堂です。龍眼寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
柳嶋(やなぎしま) 妙見堂(みょうけんどう)の挿絵の左側が「法性寺」です。中央に「妙見堂」、境内の左端に「影向松」があります。挿絵の右上を流れる川は「十間川(現在の北十間川」です。挿絵の下を流れる川は現在の横十間川です。 |
左の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、法性寺の山門です。左の挿絵では東側(横十間川の側)に山門がありますが、現在は北を向いています。 右の写真で、左側に本堂、右側に妙見堂があります。いずれも新しい建物に入っています。 右は妙見堂入り口です。法性寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
押上(おしあげ) 最教寺(さいきょうじ)の挿絵には、「当寺(とうじ)に蒙古(もうこ)退治(たいじ)の旗曼荼羅(はたまんだら)あり」とあります。
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左の挿絵に描かれた最教寺は、上の地図の緑色の楕円の辺りにあったようですが、現在、八王子へ移転しているそうです。 |
押上(おしあげ) 法恩寺(ほうおんじ) 霊山寺(りょうさんじ)の挿絵では、右が「法恩寺」で、左奥が「霊山寺」です。法恩寺の本殿を右回りに「方丈」、「庫裏」、「塔仲」、「表門」、「まりし天」、「番神」が見えます。霊山寺の本殿を右回りに、「庫裏」、「表門」、「かんのん」、「開山堂」があります。 |
左の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は法恩寺、水色の円は霊山寺です。 右の写真は法恩寺の山門です。どうやら、左の挿絵の塔中の辺りは住宅になっているようです。 右は法恩寺本堂です。その由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 右の写真は霊山寺の山門です。江戸時代よりも寺域が狭まっているように見えますが、参道を挟んだ両側の徳寿院、龍興院は霊山寺の塔頭かもしれません。 右は霊山寺本堂です。霊山寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 |
瓦師(かわらし)の挿絵には、「中之郷(なかのごう)の辺(へん)瓦師(かわらし)の家(いえ)多(おお)く、是(これ)を業(なりわい)とするもの多し」とあります。 |
上の地図の緑色の楕円はかつて中之郷瓦場と呼ばれた辺りです。瓦師が多く住んでいたのでしょうか。赤い楕円は中之郷瓦町と呼ばれた辺りです。 |
上の挿絵で、上が業平天神祠(なりひらてんじんやしろ)で、左下が中郷(なかのごう)第六天(だいろくてん)、八幡宮(はちまんぐう)です。 図の中央右端に「天満宮」、「ちそう」、「夫婦竹」があります。左奥は「南蔵院」です。図の左下に「八まん」があり、その右側に「第六天」が見えます。 江戸名所図会の本文には、八幡宮は業平天神の南の方荒井町にあり、大六天(第ではなく大と記されています)は八幡宮の北隣にある、と書かれています。南蔵院から南西に5、600m離れていますので、上の挿絵は構図的にちょっと無理のある感じがします。 |
左の挿絵に描かれた業平天神、南蔵院は、上の地図の緑色の楕円の辺りにありました。挿絵の下部に書かれている八幡宮第六天は、江戸名所図会の本文に従うと、赤い円のどこかにあったようです。現在は、いずれも見当たりません。 |
多田薬師堂(ただやくしどう)の挿絵には「秋葉社は毎年十一月十六日祭礼ありてにぎわえり」とあります。 絵の中央に「本堂」があり、その左に「元三大師」とあります。左に「東江寺」があります。右には「旅宿寺」があり、さらに右に「秋葉」とあります。手前の川は隅田川です。 多田薬師堂について、江戸名所図会の本文には、「同所大川端にあり、玉島山明星院東江寺と号す・・・」とあります。 |
左の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りにあったようです。 なお、尾張屋版「江戸切絵図」(1849~1870)では東江寺ではなく、東漸寺となっています。 |
中之郷(なかのごう)さらし井の挿絵には、「世の中は 蝶々とまれ かくもあれ 西山宗因 」とあります。 | |
中郷(なかのごう) 最勝寺(さいしょうじ) 神明宮(じんめいぐう) 太子堂(たいしどう)の挿絵では、右側に「最勝寺」、左上に「如意輪寺」、「太子」、左下に「神明」、「いなり」、「聖天」、「神宮寺」があります。 |
左の挿絵に描かれた如意輪寺は、上の地図の赤の楕円の辺りにありました。最勝寺や稲荷は緑色の楕円の辺りにあったようです。 |
江戸名所図会(えどめいしょずえ)の巻之七の中のページ
第十八冊 富岡、深川、本所、亀戸、押上 このページです
第十九冊 隅田川東岸、葛西、柴又
第二十冊 行徳、国府台、真間、船橋 (準備中)