アラさんの隠れ家歴史散歩金川砂子(かながわすなご)>神奈川宿の東隣(江戸側)の村々


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神奈川宿の東隣(江戸側)の村々

金川砂子 江戸時代の風景 今の様子と図の説明

序  (金川砂子より)
序

序(続き)  (金川砂子より)
序

左は、金川砂子の「序」の部分です。ページの左半分から著者煙管亭喜荘の書いた序が始まります。なお、虫食い(黒い紐状の汚れ)がかなりありますが、後ろの方の頁になると少しづつ減ります。「序」の釈文を下に書きます。

「序

この文(ふみ)、もとより一時のけいく?更に作るの覚悟ならず。唯、ふようの眠りさまさんとて、かんなかは(神奈川)の古ことを考え記(しる)さばやと、目に見、耳に聞くにつけて何くれと書きつけあまたひびつもりぬとか?。さるを、この里なほに見て(ただ見るだけで)過ぎん人のためにもかどさとひしに、書なし絵図をも加えて道しるべのたつき(てがかり)とせるはこのことなれば、その面影のさながら心に紛(まが)いて、絵空事とも思ほえず(思いがけなく)ということを、文政甲申の年(1824)の夏、そのままながら書きやる。

   武陽(ぶよう 江戸、武蔵国を指す)
   金駅(きんえき)之住人
     煙管亭喜荘(きせるてい きそう)」

(読めないところが何箇所かあります)

凡例  (金川砂子より)
凡例

凡例(続き)  (金川砂子より)
凡例

左の金川砂子の「凡例」の釈文を下に書きます。

「凡例(はんれい)

一 夫(それ)此の文はすべて東海道名所図会というを引き書きしたれば、かの文中ことごとくあり。
一 すべて方位を示すには、滝の橋は神奈川中央にある故、滝の橋より某(なにがし)の東何町、某の西何町にあり、としるし、あるいは左の方、右の方とは江府(えふ 江戸)より上へ赴く旅者(りょしゃ)の左右なり。
一 引書(いんしょ)は古来流布の記、和歌は代々(よよ)の撰集、軍談はその要を摘(つま)んで記し、神廟(しんびょう)梵刹(ぼんさつ)の由縁は社人(しゃじん)寺僧の記(き)せるを考え、又、駅翁、野夫(やふ)の諺も是(ぜ)なるは載することあり。
一 近村(きんそん)郷里(ごうり)にことごとく寺社古跡たぐいあれども、際限あらざれば、これ又省く。三ツ沢檀林、斎藤分善龍寺駅中の内なれば記す。左右の隣村(子安村、入江川、新宿、芝生村、追分)は駅中に連なる隣村なれば図ばかりあらわす。
一 山水風景細図は天地万物(ばんもつ)の始め、書人の骨筋なり。画(え)書くに甚だ伝法あり。僕(おのれ)が一筆の細図は我流にして四時(しいじ 四季)の別(わか)ちなく小児の虚書(むだがき)にひとし。

諸文は、猿(さる)利根(りこん 賢いこと)にまかしたれば(猿知恵にまかせて書いたので、の意)、影護(うしろめたき)こと際(かぎり)なければ、若し賜顧(しこ)の君子ありて、その拙(つたなさ)を許したまいて、誤りの大なるを報知(つげ)たまうあらば、夫(それ)則(やがて)後学の一助となりて幸い最も甚だしからん

           煙管亭誌 」

東海道  (金川砂子より)
東海道

東海道  (金川砂子より)
東海道

東海道  (金川砂子より)
東海道

東海道  (金川砂子より)
東海道

上の「駅路鈴(えきろのすず)之絵」には以下の様に書かれています。

「駅路の鈴は皇帝の御代御代にて其の形異なることありと。又、鹿嶋志(かしまし)に見えたる正等寺(しょうとうじ)什物(じゅうもつ)は、其の長さ一尺壱寸耳目口七等具(そな)わり、神代より扶桑見聞私記(ふそうけんもんしき)に曰く、大庭景義の曰、駅路の鈴は其の出る所っを知らず。神代より相承ありし駅路の鈴というは、いずれの御代よりか鹿島の神の宝前に奉納あり。その形柄香ろうに似て、その音(おと)高し昔は其の鈴を賜り朝敵退治の人持参し、**を取って軍兵(ぐんひょう)を指揮(さしひき)しけりといえり。又、能く悪魔を降伏(ごうぶく)すといえり。委(くわ)しくは前にあらわす続日本記、延喜式(えんじしき)、江家次第(こうけしだい)、令義解(りょうぎかい)等につきて見たまうべきなり。ここに、あらはす駅路の鈴の図は、東海道名所図会に見えたればここにあらわす。駅路の鈴のことは委しく知らざればそのあらましをここに記す」

左の金川砂子の「東海道」の釈文を下に書きます。

「東海道

抑、東海道と云うは、天地開きて国常立命(くにとこたちのみこと)より天神(てんしん)七代地神五代の御始(おんはじめ)天照大神(あまてりおんかみ =あまてらすおおみかみ)の末、葺不合尊(ふきあわせずのみこと =ふきあえずのみこと)第四の皇子(おうじ)神日本磐余彦尊(しんやまとそわれひこのみこと =かむやまといわれひこのみこと)、神皇の始神武天皇なり、神代の蹤(あと)を継ぎ、日向の国宮崎に都(みやこ)したまう。五十九年と申す己未(きび)の年十月東征して、豊葦原(とよあしはら)の中津国にとどまりおわします。大和国(やまとのくに)と云うはこれなり。高市郡(たかいちのこおり)畝火の山を転じて帝都を立て柏原の地を切りはらいて宮室(きゅうしつ)を作りたまいき。すなわち柏原の宮(橿原宮)という。然りしよりこのかた、代々(よよ)の帝皇(ていおう)都(みやこ)を所々へ遷ること三十度に余り四十度に及べり。中略。五十代桓武天皇の御宇、延暦三年(784)十月大和国奈良の都より山城の国に遷(うつ)されて長岡の宮(今西のおか大原野の近所に内裏の蹤あり)におわしましける。此の京狭(せば)しとて同十二年(793)正月大納言藤原小黒丸(おくろまる)参議左大辯紀(だいべんき)の古佐美(こさみ)大僧都(だいそうず)源海等をつかわして当国の内、葛野郡(かどのこおり)宇多村を見せらる。三人共に奏して申す。此の地は左青龍(せいりゅう 左の方に水の流れあるをいう)、右白虎(びゃっこ 右の方に道あるをいう)、前朱雀(すじゃく 前に田畑あるをいう)後玄武(げんむ 後ろに高山あるをいう)、一つも欠けず四神(しじん)相応の霊地なり。ここに依って同十三歳(794)に長岡の京より此の平安城に遷したまいて以来(このかた)都を他所へ移されず。桓武天皇平安城を興基(こうき)ありてより、結縄(けつじょう)の政をして天下化成(てんかかせい)し、加之(しかのみならず)代々(よよ)の聖主徳を踏み、仁を詠じ、上下の風を同じうして群生(ぐんせい)を撫育(ぶいう)したまえば、四海(よつのうみ)静かにして億兆の歳を渡らんとぞ見えにける。抑(そもそも)平安京はすべて一千有余歳の都にて、もろこしにもその例(ためし)あらず。五畿七道は天武天皇の御時、勅(みことのり)に依って定められ、その中にも東海道はその冠首(かんしゅ)たり。草薙の余光(よこう)煌々(こうこう)として、四海(しかい)の潮(うしお)は東日(とうじつ)に照らされて、浪の音穏やか、干戈(かんか)の威(い)日々に新たにして、梟鳥(きょうちょう)敢えて翔(か)けず。賞罰厳かにして虎畏(おそれ)をます。京よりの往来、貴賎となく、老少となく、夜となく昼となく、公卿は勅(ちょく)を蒙(こうむ)り春の御使、藩屏(はんぺい)の諸侯はかわるがわる参勤あり。あるいは、商人(あきびと)の交易、斗薮(とそう)の棄門(よすてびと)、風騒(ふうそう)の歌枕、俳諧の行脚、伊勢参り、富士詣の、駅路の鈴の絶え間もなく、馬あり駕籠あり舟あり橋あり、泊々(とまりとまり)は自在にして、酒旗(しゅき)所々に翩翻(へんぽん)たり。周禮(しゅうらい)曰く、国野(こくや)の道、十里に一盧(いちろ)あり、盧に飲食あり。三十里に宿あり、宿に驛亭(えきてい)ありとぞ。馬に鈴をつくるを駅路の鈴というて昔毎年貢物を馬にて運び蔵(おさ)め奉るなり。又は、公卿国々の任ありて守護に下りたまう時、此の鈴を付けたる馬は夜も関の戸を明けて通したるとなり。 孝徳帝の御宇大化二年(646)に関宿を定め駅馬伝馬に鈴の契(しるし)を付けることあり。続日本記、延喜式、江家次第(こうけいしだい)、令義解(りょうぎかい)等には粗(ほぼ)見えたり。

新六帖 旅人の山路へわぶる(落ち込む)夕霧?に駅(むまや)の鈴の音(おと)響くなり 衣笠内大臣

新八帖 道細き里の駅(むまや)の鈴鹿山(すずかやま)ふりはえ過ぐる友よいうなり 為家

同 神もさぞ降り来る雨はしの塚の駅(むまや)の鈴の小夜深き声 道遥院

国王七鈴(しちれい)をもって七道へ遣(つか)わすには官使(かんし)に一つづつ賜う。これを印(しるし)にて駅(むまや)へ着く毎に振りならして宿るなり。其のと所を駅路という。駅舎(むまつき)は江戸より京師(けいし)まで五十三駅(つぎ)なり」

生麦松原 子安一里塚  (金川砂子より)
金川砂子 生麦松原

  旅かごの さかてもいまだ にえきらで?
   えましのたらぬ? 生麦の里
   (翠通)

絵の歌は、殆ど理解できていません。

金川砂子の絵は、南側(海側)からの鳥瞰図で、絵の右上が川崎宿方向です。絵の右側が生麦松原、中央から左にかけて一里塚があります。

生麦

上の金川砂子の挿絵に書かれているのは今の横浜市鶴見区と神奈川区の境の辺りで、右の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。なお、地図上で赤い破線は旧東海道で、青い破線は大雑把に推定した海岸線です。

生麦辺り 右の写真は図の辺りかと思われる現在の様子です。旧東海道は今は第一京浜となっており、たくさんの車が行き交っています。一里塚の痕跡もないようです。

子安村  (金川砂子より)
金川砂子 子安村

挿絵には、街道の右から順に、「遍照院」、「本慶寺」、「淡島社」が書かれています。

子安

上の図には、左の金川砂子の挿絵に対応すると思われる範囲を緑色の楕円で示しています。遍照院と本慶寺はJRと京急に挟まれたところに建っています。

下は、挿絵と略同じアングルだろうと思われるGoogle Earthの画像です。 赤い線は旧東海道です。

金川砂子 子安村

遍照院 第一京浜沿いに遍照院の石柱があります。そこから遍照院を見たのが右の写真です。石柱の先に参道があり、その先に踏切があり、さらにその先に山門が見えます。

遍照院 右の写真は、京浜急行線の手前から撮っています。山門の直前に線路があります。遍照院の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

本慶寺 左の図の中央の本慶寺は、現在、京急新子安駅のすぐ北に位置しています。右の写真は、京急線の線路の塀に背中を付けて撮っています。本慶寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

子安村 其二  (金川砂子より)
金川砂子 子安村 其二

   日の入りに 撰ばぬ 夏の旅路かな

絵の右端に「稲荷社」とあり、中央に「海保」とあります。

左の金川砂子の図の場所は、JR新子安駅の近くだろうとは思いますが、正確にはわかりません。

また、海保とは、後ろ側にある山を指すか、あるいはその一帯を指しているものと思われます。左下の欄の「御開港横浜之全図」(山側から見た様子が書かれています)によると、一之宮のある丘のすぐ東隣の丘(現在、JR新子安駅の北側辺り)にカイホ山(四角い赤地に黒文字)との表示があります。なお、この御開港横浜之全図は、橋本玉蘭斎(歌川貞秀 江戸時代から明治時代にかけて活躍した浮世絵師)の描いたものです。

子安

上の地図には、左図の描かれている範囲と思しきところを緑色の楕円で記してあります。

入江川橋 一之宮  (金川砂子より)
入江川橋 一之宮

 春の日も はや山の端に入江川
   かへす光を 水に見るかな (読み人知らず)

上の挿絵では、右の小高い丘に「一之宮」があり、その麓を「入江川」が流れています。東海道に掛かっているのは「入江川橋」です。絵の左側には「蛭児社」があります。

御開港横浜之全図(UBC Library)の一部
   入江川辺り
御開港横浜之全図子安部分

上は、御開港横浜之全図の一部で、この図は山側から見ている図です。

子安

左の金川砂子の図の中央少し右に入江橋があります。その奥の高台に一之宮があります。上の地図に、挿絵の描かれた範囲を緑色の楕円で示しました。

下は、挿絵と略同じと思われるアングルをGoogle Earthで描いたものです。赤い線は、旧東海道(現 第一京浜)です。

金川砂子入江橋

入江橋 右の写真は、第一京浜で、東側から入江橋の方向を撮ったものです。画面の中央の左側にガードレールが僅かに見える辺りの下を入江川が流れています。その更に先に見える陸橋は入江橋交差点です。

入江橋 右の写真は、入江橋交差点の上で東を見て撮っています。写真中央の青い道路標識の下辺りが入江橋です。その下を入江川が流れています。

一之宮 入江川の左岸(下流を見て左の岸)の道を少し遡ると右の写真のような一之宮の鳥居があります。

一之宮 更に上りの参道が続きます。

一之宮 登りついた所に一之宮の本殿があります。木が茂っていて本殿の形がわかりづらい状態になっています。

一之宮 本殿を横から写しました。一之宮の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

新宿村  (金川砂子より)
金川砂子 新宿村

自ずから りりしく見ゆる 足元は
 これ?あつらいの 伴の旅人 (十返舎一九)

 春風や 売り切れて居る 道中伝 (岱画?)

絵の右側には、「大安寺」、「相応寺」が書かれています。中央には「西蓮寺」、「浦島塚」があります。更に左には「松井亭」とあります。

入江川を渡ると新宿村です。左の図の大安寺、相応寺は現存しますが、西蓮寺、浦島塚の所在は不明です。

子安

左の金川砂子の挿絵に描かれた範囲を上の地図に緑色の楕円で示しました。

下は、Google Earthで描いた、挿絵と略同じと思われるアングルです。赤い線は旧東海道です。左の挿絵と比べると、大安寺が旧東海道から離れすぎているように感じます。おそらく、鉄道を通すため等で、大安寺の寺域の南側が削られているのではないかと思われます。

金川砂子 大安寺

相応寺 右は、相応寺の山門です。

相応寺 相応寺の本堂です。相応寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

大安寺 右は、大安寺の山門です。

大安寺 右は、大安寺の本堂です。大安寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

西蓮寺 浦島塚(金川砂子より)
金川砂子 浦島塚

西蓮寺、浦島塚の跡地は不明です。

 


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