今回は、地下鉄の早稲田駅で集合し、雑司が谷鬼子母神まで歩いてきました(2019年9月2日)。上の写真は甘泉園です。

下は、今回のルートを示す地図で、グーグルマップを用いています。赤い大きめのマークの 史跡の中から選んで歩きました。

みんな揃ったところで歩き始めました。

先ず、穴八幡宮(あなはちまんぐう)を訪ねました(TNさん撮影)。かつては高田八幡と呼ばれていたのだそうです。源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったのが始まりなのだそうです。塞神は応神天皇他です。

下は一の鳥居です(Iさん撮影)。

鳥居の前の説明板を見ています。

下は説明板です(TNさん撮影)。高田馬場の流鏑馬の説明があります。

下は、その近くにある騎馬武者像です(TNさん撮影)。

下は、二の鳥居です(Nさん撮影)。

参道を更に登ると随神門(桜門)があります。

楼門をくぐり抜けたところです。

穴八幡宮の拝殿です。

拝殿にて。

境内にある横穴から金銅製の阿弥陀如来像が出土したため、穴八幡宮と呼ばれることになったのだそうですが、その名前の由来となった穴について説明をしています。

下は、穴八幡の別当であった放生寺(ほうしょうじ)です。真言宗の寺院です(Iさん撮影)。

放生寺の本堂です(Iさん撮影)。

放生寺の境内です(Nさん撮影)。言の葉の碑の前です。

穴八幡宮から北上し、現在の高田馬場の地名の由来となった馬場のあったところに来ました。下は高田馬場の説明板前です。この写真の辺りから左側の細長い地域に高田馬場があったのだそうです。

高田馬場の説明板です(TNさん撮影)。

次に、水稲荷神社(みずいなりじんじゃ)を訪ねました(Iさん撮影)。戸塚稲荷神社また榎稲荷とも呼ばれています。この神社は、かつては、穴八幡宮の東側にあったのですが、昭和期にここに移りました。

参道に入るとすぐのところに、堀部安兵衛の碑があります。

参道をしばらく歩くと鳥居があります(Nさん撮影)。ここを進み左に曲がると拝殿です。

水稲荷神社の拝殿です(TNさん撮影)。

水稲荷神社の拝殿の奥にある、富塚古墳です。

水稲荷神社の北側に、甘泉園(かんせんえん)公園があります。

庭園の池の畔です。

同じく池の畔です。

池の様子です(TNさん撮影)。

甘泉園の正門から出ました(Iさん撮影)。

正門の説明板です。

次に、日蓮宗の亮朝院(りょうちょういん)を訪ねました。下は亮朝院の山門です。

亮朝院です。

下は、亮朝院の本堂です(Iさん撮影)。

七面大明神堂の前です。

これが七面大明神堂です(TNさん撮影)。

そこから、西早稲田天祖神社を訪ねました。塞神は、天照大御神他です。

境内にて。

上の写真のNさんが撮った写真です。それぞれ、ミニ扇風機、うちわ、扇子を持っています。

神田川にかかる面影橋(おもかげばし)です(Iさん撮影)。都電が神田川に沿って走っています。

神田川です(Nさん撮影)。

面影橋の袂にある山吹の里の碑です。太田道灌が雨に会い、蓑を借りようとした逸話が書かれています。

下は説明板です(Nさん撮影)。

下は、高田氷川神社です。塞神は素戔嗚命です。

鳥居と拝殿です(Iさん撮影)。

下は、真言宗の南蔵院の前です。

南蔵院の山門です(Iさん撮影)。

南蔵院の本堂です(TNさん撮影)。

次に、真言宗の金乗院(こんじょういん)慈眼寺(じげんじ)を訪ねました。下は、金乗院の山門です。

下は本堂で、その前の倶利伽羅不動庚申塔を見ています。龍の形をした倶利伽羅明王は不動明王の化身なのだそうです。

金乗院には、目白不動があります。目白不動(長谷寺)はかつては目白台にあったのですが、火災にあい消失し、金乗院に合併したのだそうです。下は現在の目白不動です(TNさん撮影)。

下は、根性院(こんしょういん)で、これも真言宗の寺院です。

根性院の本堂です(TNさん撮影)。

根性院の前でNさんが撮ってくれました。

根性院を出て厳しい宿坂を登り、雑司が谷鬼子母神に向かいました。

下は、雑司が谷鬼子母神参道入口です。

参道に入ったところです(Nさん撮影)。

参道に入るとすぐのところに、手塚治虫の住んでいたことがあるアパートがあります。トキワ荘を出た後に住んだところだそうですが、現在も使われています。

雑司が谷案内所です。

正面が雑司が谷鬼子母神堂です(Iさん撮影)。

下は、鬼子母神堂です(Nさん撮影)。

下は、鬼子母神堂の裏側にある妙見菩薩道妙見菩薩堂です。

この日は暑い一日でしたのでここで街歩きは終了としランチにしました。下は、ランチのお店での1枚です。