今回は、都営新宿線菊川駅で集合し、赤穂浪士の集結地、討ち入りの地、そしてその後泉岳寺へ向かう道を、清澄まで歩きました(2017年11月6日)。上の写真は、街歩き途中の風景です。
下は、今回のルートを示す地図で、オープンストリートマップを用いています。赤い破線は、人文社の江戸東京散歩に従った、赤穂浪士の辿った道です。
都営新宿線菊川駅を出ると、長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡があります①。池波正太郎の「鬼平犯科帳」でも知られる長谷川平蔵と、江戸町奉行の遠山金四郎がこの辺りに住んでいた、とのことです。
下は、元徳稲荷神社(もととくいなりじんじゃ)です②(AFさん撮影)。竪川(たてかわ)の三之橋近くにあります。由緒によると、徳川家の家来、河村徳右衛門という人物が岡崎に建てた稲荷神社を江戸に移し、さらにこの地に移したときに、元々徳右衛門邸にあった稲荷、という意味の「元徳稲荷神社」という名になった、とのことです。
そこから西へ進むと、安兵衛公園の幟があります(Nさん撮影)③」。
ここは、赤穂浪士の集結地の一つです③。
下は、公園内の様子で、堀部安兵衛道場跡、という説明板があります。
下のように、この説明板には、堀部安兵衛が赤穂藩に移った経緯や、討ち入りの前後の話が書かれています(Nさん撮影)。
二之橋の北詰めに小林一茶旧居跡の説明板があります④。
小林一茶の説明板です(Nさん撮影)。
下は、両国公園です⑤。勝海舟誕生の地です。
入ると正面に、勝海舟生誕の地という碑があります(Iさん撮影)。
また、勝海舟絵巻が壁に埋め込まれた一角があります(Iさん撮影)。
これらの資料によると、勝海舟の曽祖父が大儲けして男谷家(おたにけ)という旗本の株を買い、海舟の祖父の代から旗本になりました。海舟の父は三男で相続できなかったため勝家に婿養子に入りましたが、勝家は貧乏旗本で苦労したようです。そのような状況の中で、海舟が海軍に入り頭角を現し、幕末に大活躍することになった経緯が書かれています。
さて、その壁の前に、記念撮影用と思われる椅子がおいてあり、刀を左手に、変なおじさんが座っていました(AFさん撮影)。
もう一人変なおじさんです(Nさん撮影)。
下は、その横にある勝海舟生誕の地の碑です。
下は、両国公園の少し西にある、芥川龍之介文学碑です⑥(Iさん撮影)。
さらに西に進むと、吉良邸跡があります⑦。下はその正面で、現在、本所松阪町公園にもなっているようです(Iさん撮影)。
当時、吉良邸は大きな屋敷だったそうですが、現在のこの吉良邸跡はほんの1%余りにしかならないようです。内部には、吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ/よしなか)の像(下の写真 AFさん撮影)や、討ち取った後首を洗ったという「みしるし洗い井戸」(さらに下の写真)などが残されています。
園内の様子です(Nさん撮影)。
吉良家は高家(儀式や典礼を司る役職または家格)の地位にありました。上野介義央も、その役割で存分に力を発揮したようです。忠臣蔵では完全な悪役になっていますが、実態はどうなのでしょう。
赤穂浪士は、裏門から討ち入り、上野介を探し、討ち取ったと言われていますが、吉良家の屋敷は下の写真のように(Iさん撮影)、広い敷地にたくさんの部屋があり、探し出すのに大変な苦労をしました。
吉良邸跡を出て、次へ向かいます(AFさん撮影)。
この少し西に、吉良邸の裏門(赤穂浪士が討ち入ったとされる門)の碑があります。
さらに西へ進むと回向院があります⑧。下は、回向院(えこういん)の入口付近にある旧国技館跡の碑です。
回向院の山門です(AFさん撮影)。
山門の右側にある由緒です(Nさん撮影)。
回向院は、明暦の大火で出た大勢の犠牲者を弔うために建てられました。そして、その後のいろいろな災害での犠牲者を弔っています。
下は、回向院の本堂へ至る参道です(Iさん撮影)。
境内には、相撲関係の石碑が集められています(AFさん撮影)。
下は、境内です(Nさん撮影)。
鼠小僧次郎吉の墓もあります。
下は、回向院のその他の境内の様子です(Iさん撮影)。
さて、この後、両国橋⑨に向かいます。
下は、その途中の、猪料理のお店です(Nさん撮影)。
見ていたのは下の写真の猪です(Iさん撮影)。説明板によると、江戸時代は、肉食を禁じられていたようですが、猪の肉を「山くじら」として提供していたのだそうです。
その辺りから、両国橋が見えます⑨(Iさん撮影)。
両国橋のたもとに、大高源吾(おおたかげんご)の句碑があります。「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」と彫られています。
ここから見た両国橋です(Nさん撮影)。
江戸時代の両国橋は、現在よりも50m程南にあったそうですが、その辺りに、現在、旧両国橋・広小路跡の碑があります(Iさん撮影)。
大山道に関連する説明板がありました(Nさん撮影)。
ところで、赤穂浪士は、ここ広小路で休憩しているのだそうです(AFさん撮影)。
上にもかいてあるように、赤穂浪士は、両国橋を渡らず、ここで方向を南に変えました。
下は小名木川(おなぎがわ)に架かる一之橋(いちのはし)です⑩。
一之橋の南側に、江島杉山神社(えしますぎやまじんじゃ)があります⑪。下は鳥居です(Iさん撮影)。
江島杉山神社は、将軍綱吉の御用鍼灸師であった杉山検校(けんぎょう)が江ノ島から弁財天を勧請し建てた神社だそうです。下は鳥居と拝殿です(AFさん撮影)。
ここで、思いがけなく、江島杉山神社の説明をしてもらえました(Nさん撮影)。
さらに進むと、新大橋の東詰に御船蔵(おふなぐら)があります⑫。御船蔵とは、幕府の船舶の格納場所だったのだそうです。下はこの御船蔵の碑です。
下の写真は、この階段を上ったところです(Nさん撮影)。
そこから見える新大橋です(Iさん撮影)。
新大橋から撮りました。
さらに南に進むと芭蕉記念館がありますが⑬、今回は中へ入らずにこのまま進みました。
下は、芭蕉稲荷神社です⑭(Iさん撮影)。
ここには、芭蕉庵碑もあります(Iさん撮影)。
下は、正木稲荷神社(まさきいなりじんじゃ)です(Iさん撮影)。
この奥に、芭蕉庵史跡展望庭園があります。下は、その入口です(Iさん撮影)。
下は、展望庭園です。
芭蕉像です(AFさん撮影)。
この庭園から隅田川を眺めました。
ここから見た清洲橋です(Nさん撮影)。
さらに南に進み、萬年橋を渡ります(Nさん撮影)。
萬年橋から見た隅田川です(Nさん撮影)。
萬年橋を渡ると、赤穂浪士は右に曲がったようですが、我々はその道から少し離れ、横綱通りを通り、清澄庭園の方に進みました。
下は、臨川寺(りんせんじ)です⑮。
ここには、芭蕉由緒の碑などが置かれています(Iさん撮影)。
ここで一先ず、ビールを飲みながらランチを頂きました。
ランチの後、お腹がいっぱいになったので元気を取り戻し、深川江戸資料館をじっくりと見学しました⑯。下は、入口付近にいた人形です(Nさん撮影)。
館内では、いろいろと説明を伺うことができ大変良く分かりました。ガイドの方、ありがとうございました。
資料館見学後、この日はここで解散としました。