今回は、清澄白河駅で集合し、清澄庭園、深川不動堂、富岡八幡宮などを歩きました。タイトルは赤穂浪士の道としてありますが、今回は、そこから少し離れたところを散策しています(2017年12月4日)。上の写真は、街歩き途中の、旧弾正橋での風景です。
下は、今回のルートを示す地図で、オープンストリートマップを用いています。赤い破線は、人文社の江戸東京散歩に従った、赤穂浪士の辿った道です。
先ず、清澄白河駅から霊厳寺①に向かう途中、雄松院(ゆうしょういん)に寄って渡会園女(わたらいそのじょ /そのめ)の墓を見ました。下は雄松院の山門です(Iさん撮影)。渡会園女は、医者であり芭蕉の弟子でした。
下は渡会園女の墓です(Iさん撮影)。
下は、霊巌寺(れいがんじ)の門柱です(Iさん撮影)。霊巌寺は、元は霊岸島にありましたが、江戸時代初期に現在地に移っています。
霊厳寺本堂です。
江戸六地蔵の一つがあります(TNさん撮影)。
この境内には松平定信の墓所があります。
下は松平定信の墓です(TNさん撮影)。
霊巌寺の向かいの成等寺に紀伊国屋文左衛門の墓があります。下は紀伊国屋文左衛門の碑です(Iさん撮影)。左脇にあるのが墓のようです。紀伊国屋文左衛門は実在の人物かと疑われるほど歴史的事実があいまいなようです。みかんで儲け、材木でも大儲けし、といろいろな話が伝わっている人物です。
次に、本誓寺(ほんせいじ)に向かいます。清澄公園の塀に沿って歩きました。
本誓寺には国学者村田春海(むらたはるみ)の墓があり、下は、その説明板です(TNさん撮影)。
下は、本誓寺の本堂です(Iさん撮影)。
その後、清澄庭園を散策しました。下は、清澄庭園入口です。清澄庭園は、三菱財閥の岩崎弥太郎から東京都に寄付されたのだそうです。
清澄庭園は紅葉が進んでおり、皆さん沢山写真を撮りましたので以下にスライドショーで掲載します。
先ず、AFさんの清澄庭園です。
次は、TNさんの清澄庭園です。
次はIさんの清澄庭園です。
次はNさんの清澄庭園です。
私の撮った清澄庭園です。
その後、清澄庭園の西隣の清澄公園を歩きました④。こちらもイチョウがきれいでした。
AFさんの清澄公園です。
Iさんの清澄公園です。
Nさんの清澄公園です。
私の清澄公園です。
清澄公園を抜け、浅野総一郎が日本で初めてセメントの製造に成功した所に行きました⑤。下のような碑と浅野総一郎の像があります(Iさん撮影)。
下は、平賀源内の邸宅跡で、日本初の電気実験の碑があります(Nさん撮影)。
この南には仙台堀川が流れており、その一部に芭蕉の句の散歩道があります⑥(Iさん撮影)。
下は、Iさんが撮った芭蕉の句です。
下は、芭蕉の「奥の細道」の旅の出発点となった採茶庵(さいとあん)です⑦。
芭蕉と並んで記念撮影です(Nさん撮影)。誰が最も曽良役に相応しいと思いますか。
採荼庵から南に進むと、小津安二郎誕生の地の碑があります(Iさん撮影)。
次は心行寺です⑧(NTさん撮影)。
心行寺には福禄寿がいて大人気でした(AFさん撮影)。
こらこら(Nさん撮影)。
悪い子は閻魔様に訴えようと、次は法乗院(ほうじょういん 深川えんま堂)に行きました⑨。下がその閻魔様です(TNさん撮影)。
閻魔様を撮っているTNさんの後ろ姿です(AFさん撮影)。
下は法乗院の山門と本堂です(Iさん撮影)。本堂の左側に閻魔堂があります。
さて、そろそろお腹が空いてきましたので、永代通りの門前茶屋で深川めしとビールで一休みしました(Nさん撮影)。
元気が出たところで、行動開始です。
下は、深川不動の前の人情深川ご利益通りです(Nさん撮影)。
下は深川不動の本堂です(Nさん撮影)⑪。本堂では、丁度、護摩祈祷が行われていました。ダイナミックな音響効果は迫力がありました。本殿左側の堂宇の壁は梵字でデザインされており、ビジュアル的にも効果大です。
下は、深川不動の境内の様子です(Iさん撮影)。
下はNさん撮影の境内の様子です。
深川不動の本堂の内部は、一大テーマパークのようになっており見所満載のようですが、この日は、さっと通り抜けるだけですませました。
下は、永代寺です(Nさん撮影)⑩。江戸時代は、永代寺は大変大きなお寺で、この辺り一帯は永代寺の寺域でした。門前仲町の門前とは永代寺の門前を意味していたのですが、明治時代に廃寺となってしまいました。しかし、その後塔頭の一つが名前を継ぎ、面積は大変小さくなっていますが、深川不動の前辺りに永代寺として再建され今に至っています。
次は、深川八幡祭りで知られる、富岡八幡宮です⑫。
下は富岡八幡宮の鳥居と拝殿です。
下は、拝殿です(Nさん撮影)。
富賀岡八幡宮には、横綱力士碑があります(Iさん撮影)。
下はIさんの撮影した富賀岡八幡宮は境内の様子です。
下は、Nさん撮影の富賀岡八幡宮の境内です。
下は、富賀岡八幡宮の東側にある、八幡橋(旧弾正橋)で、都内最古の鉄製の橋なのだそうです(AFさん撮影)⑬。これは、中央区の楓川に架かっていた橋(弾正橋)です。
下は、三十三間堂跡です⑭。京都の三十三間堂と同じように、通しで弓を射ていたということです。
ここから、隅田川に向かって進みます。
下は、深川東京モダン館です(Iさん撮影)⑮。
永代通りと大島川西支川(おおしまがわにししがわ)の交わる所にある福島橋の東詰に、渋沢栄一宅跡があります⑯(Iさん撮影)。
皆さん、真剣に説明板を見ています。
福島橋の上で、皆さん何を撮っているのでしょう。正解はスカイツリーです。
福島橋西詰には佐久間象山砲術塾跡があります(Iさん撮影)。
さらに先に進むと赤穂浪士の辿った道に戻ります。下は、赤穂浪士休息の地です⑰。
この後、我々は永代橋を渡りますが⑱、江戸時代の永代橋は現在より少し上流にありましたので、赤穂浪士は、上の休息の地から西に向きを変えて隅田川を渡ったことになります。
下は、現在の永代橋(左)と豊海橋(とよみばし 向こう岸)です(Nさん撮影)。江戸時代の永代橋は、この写真の画面右端に架かっていたはずです。
永代橋と豊海橋を渡り赤穂浪士の辿った道に戻ります。
下は、豊海橋の先にある高尾稲荷です⑲。
電柱工事のおじいさんの情報がありましたので、高尾稲荷の由来を下に追加しておきました。
下は湊橋です⑳(Iさん撮影)。
下は霊岸橋です㉑。
この日は、この後茅場町へ向かい、そこで解散しました。
電柱工事のおじいさん
深川不動は永代寺と同じ真言宗で、成田山新勝寺も真言宗でした。新勝寺は日蓮宗と勘違いをしていました。高雄稲荷の由来は遊女高雄から来ているらしく、少し離れたところに説明板がありました。(写真参照)
arasan
深川不動の謎は解けましたね。
高尾稲荷の由来、ありがとうございました。
由来を書いてある説明板のうち、表現の簡潔なものを上の本文に追加しておきました。