今回は、月島駅で集合し、佃島、明石町、築地、新橋などを歩きました。タイトルは赤穂浪士の道としてありますが、そこから少し離れたところも散策しています(2018年2月5日)。上の写真は、街歩き途中の風景です。
下は、今回のルートを示す地図で、オープンストリートマップを用いています。赤い破線は、人文社の江戸東京散歩に従った、赤穂浪士の辿った道です。
今日も寒い朝でしたが、月島駅からスタートしました①。
皆さんが見ているパネルは下です(Iさん撮影)。
駅の出口から見た風景は、タワーマンションがいっぱいです(Nさん撮影)。
先ずは、佃天台地蔵尊です②。狭い路地に置かれたお地蔵さんです(Iさん撮影)。
上のような細い路地に入るとわずかの隙間から見える空に大きなイチョウが見えます。その幹は下のようにお堂を貫いており、その奥に平らなお地蔵さんがあります(Iさん撮影)。
下は、佃波除稲荷神社です②。
ここには、二つの社が並んでおり、一つは森稲荷神社、もう一つは於咲波除稲荷神社です。
佃波除稲荷は小さな川の畔にあります。佃川支川(つくだがわしせん)と呼ぶのだそうです。下はNさん撮影です。
その少し北に佃小橋が見えます(AFさん撮影)。水面にタワーマンションが映っています。
佃小橋から上と同じ方向を見た風景です(AFさん撮影)。
佃小橋でもう一枚。
下は、街かど展示館です③。
この中には、神輿(みこし)と獅子頭(ししがしら)が展示されています。下は獅子頭です(Iさん撮影)。
佃島渡舟跡の碑です(Iさん撮影)。
周辺の風景です(Nさん撮影)。
裏に回ると隅田川で、佃大橋が目の前に見えます(AFさん撮影)。
下は住吉小橋と住吉水門です④。
下は、住吉小橋のすぐ北にある石川島灯台跡です。
遊歩道を更に進むと中央大橋とスカイツリーが重なって見えるポイントがあります(Iさん撮影)⑤。
ここから元の道に戻ります。下は、住吉小橋です(Nさん撮影)。
川(佃川支川)にカメラを向けて撮っているのは、下のオオバンです。
下は住吉神社の一の鳥居です。
二の鳥居です(Iさん撮影)⑥。
住吉神社の拝殿です。
水盤舎(おみずや)です(Iさん撮影)。
上の説明板には、鳥居には有栖川たか仁親王の書の扁額(へんがく)がある、と書かれています。下はその扁額です(Iさん撮影)。
境内の龍神社です(Nさん撮影)。
境内にある鰹塚です(AF撮影さん撮影)。
その後、佃島砲台跡へ行きました⑦。下のような説明板が置かれていました(Iさん撮影)。
佃大橋を渡り佃島を離れます⑧。
佃大橋から、北を見ると中央大橋とスカイツリーが見えます(Iさん撮影)。
南を見ると勝鬨橋です(Iさん撮影)。
佃大橋をわたると明石町です。明石町は明治時代に入り外国人居留地となり、多くの宣教師等が住んだため、ミッションスクールがここで多数生まれました。そのため、この辺りには、「**学院発祥の地」などと書かれた碑が多数あります。
下は青山学院記念の地の碑です⑨。
明治学院発祥の地の碑です(Iさん撮影)⑩。
指紋研究発祥の地の碑の前です⑩。
下は、その碑です(AFさん撮影)。
下は聖路加ガーデンです(Nさん撮影)。
違う位置から見た聖路加ガーデンです(Nさん撮影)。
下は、アメリカ公使館跡の説明板です(Iさん撮影)。昔はここに小松石の記念碑が5個あったのですが、現在は2箇所に別けて置かれている旨の説明が書かれています。
下はあかつき公園です⑪。
ここにシーボルト記念碑があります(Iさん撮影)。
次は、電信創業の地の碑です⑫。
説明碑は下の様になっています(AFさん撮影)。
下の写真は、上の碑を見ている風景です。一人だけ、次の記念碑を探している人がいます。
上の一人の視線の先にあるのが、下の月島の渡場の碑です。
昭和15年に勝鬨橋ができて渡し船は終わったそうです。
次は、慶應義塾発祥の地の碑(写真左)と蘭学事始の碑(写真右)です(Iさん撮影)⑬。
慶應義塾発祥の地です(Iさん撮影)。
下は蘭学事始の碑です(Iさん撮影)。
下は、立教学院発祥の地です(AFさん撮影)。
立教女学院の碑です(Iさん撮影)。
下は、明石小学校の一角にある築地外国人居留地跡の碑です⑭。
下は、碑の説明文です(Iさん撮影)。
その向かいに、カトリック築地教会聖堂があります(Iさん撮影)⑭。東京で最も古い教会の一つなのだそうです。
下は、礼拝堂です(Iさん撮影)。
次に築地本願寺へ向かいます。
下は、正門です(Iさん撮影)⑮。
本願寺の本堂です(Nさん撮影)。伊東忠太の設計によるインド風の石造りの建築です。
本堂入口のアップです(Nさん撮影)。
本堂内部です(Iさん撮影)。本尊は、聖徳太子手掘りと伝えられる阿弥陀如来立像です。
パイプオルガンもあります(Iさん撮影)。
境内の新大橋通り側には石碑類が置かれています。その一つが、下の間真六(はざましんろく)供養塔です。間真六は赤穂浪士の一人ですが、何故、彼一人だけ築地本願寺に墓があるのかは不明なのだそうです。
下は酒井抱一の墓です。
ここで、築地場外市場へ行き、ランチにしました。
今日のランチです(Nさん撮影)。
ランチの後、街歩き再開です。
ここから、二枚目のマップを使います。このマップで、赤い破線は赤穂浪士の通った道、濃い青色の破線は旧東海道です。
下は、采女橋(うねめばし)と新橋演舞場です(Iさん撮影)⑰。
下は、采女橋からみ見た萬年橋です(Nさん撮影)⑱。この高速道路は昔の築地川で、赤穂浪士は萬年橋を渡りました。
萬年橋の北西に歌舞伎座があります(AFさん撮影)。
もう一枚(Nさん撮影)。
下は、三十間堀跡の碑です(Iさん撮影)⑲。この碑の背後は首都高速ですが、首都高は汐留川を埋めて作られており、ここは三十間堀と汐留川の合流点でもありました。
江戸時代には、この辺りに汐留橋がありました。汐留橋はその後蓬莱橋と名前を変え、更に、昭和通りに架かる蓬莱橋となってここから数十メートル下流に移動しました。
蓬莱橋の歩道橋で撮りました(Nさん撮影)。ビルがいろいろ映り込み面白いシーンになっています。
下は旧新橋停車場で、この辺りは脇坂淡路守邸でした(Iさん撮影)⑳。脇坂淡路守は、内匠頭の刃傷沙汰で屋敷を没収された際に、その受取役になった人です。
下は創業時の線路を復元したものです(AFさん撮影)。
下は復元したホームです。
下は、日テレの北玄関にある仙台藩上屋敷(松平陸奥守上屋敷)跡です㉑。つまり伊達家のことです。
下は説明板です(Iさん撮影)。赤穂浪士はこの屋敷の前を通った時に、粥のもてなしを受けたと書かれています。他の説もあるようです。
下は新橋で烏森神社を探して歩いているところです(Nさん撮影)。
下は烏森神社の鳥居です(Iさん撮影)。
二の鳥居です(Iさん撮影)。
拝殿です。
烏森神社の鳥居にて(Nさん撮影)。
ここで、御礼にNさんを。
下は浅野内匠頭終焉の地の碑です(Iさん撮影)㉓。
辞世の歌です。
赤穂浪士はこの辺りまでは来ておらず、旧東海道に沿った道を進んだようです。そして、彼らは泉岳寺まで行くのですが、我々の赤穂浪士の道シリーズはここで終わりとします。残りは、東海道歩きで補う予定です。