今回は、旧東海道から少し外れた白金高輪駅で集合し、赤穂浪士関連の碑を見ながら旧東海道へ戻り、御殿山に寄って、北品川宿へ至るルートを歩いてきました(2018年3月22日)。上の写真は日比谷神社での一コマです。
下は、今回のルートを示す1枚めの地図で、オープンストリートマップを用いています。赤い破線は旧東海道です。青い破線は江戸時代の海岸線です。
地下鉄の白金高輪駅、港区高輪総合支所で集合し、散策を開始しました。総合支所のエレベータで5階へ上がり、そこを出たところに旧細川邸のシイがあります①。
そこから桜を見ながら進むと、赤穂義士の碑「大石良雄外十六人忠烈の跡」があります②。
門の内側は下の写真のようになっています(Nさん撮影)。
赤穂浪士のことを語り合っています。
そこから坂を下り二本榎通りに出て南下すると、浄教寺(じょうきょうじ)があります③。
ここには、江戸時代前期の絵師で俳諧師である英一蝶の墓があります。下の写真の中央です(Iさん撮影)。
熱心に見てますね(Nさん撮影)。
下は、二王門です(TNさん撮影)。仁王門の先が本堂で、本堂左手前に英一蝶の墓が置かれています。
更に進むと、望楼の付いた高輪消防署二本榎出張所があります④(Iさん撮影)。昭和初期の建築だそうです。
消防署から道を挟んで反対側に、高輪や二本榎通りの謂れを書いた碑があります。
そこから桂坂を下りました(Iさん撮影)⑤。
旧東海道(国道15号線)に出ました(Nさん撮影)。
ここで右折すると間もなく、東禅寺があります⑥。下は、旧東海道側から見た東禅寺参道です(TNさん撮影)。正面に山門が見えます。
下は東禅寺山門です(Iさん撮影)。
東禅寺は、イギリス公使の宿舎として使われたこともあったようです(TNさん撮影)。
山門の先、なかなか趣のある参道が続きます。
下は本殿です(Iさん撮影)。東禅寺はイギリス公司宿舎としても使われたため、水戸浪士に襲撃されたこともあるのだそうです。
下は三重塔です。この塔は江戸時代には無かったようです。
この先は2枚めの地図で表します。赤い破線は旧東海道、濃い青の破線は江戸時代の海岸線、空色の破線は旧目黒川です。
下は、品川駅前にある高山稲荷神社です(Iさん撮影)⑦。江戸時代にはこの少し北側の小高い丘の上にあったのですが、明治に入り、この地に移されたのだそうです。
狛犬です(Nさん撮影)。
その後、御殿山へ向かいました。下は、新八ツ山橋付近から見た御殿山です(Iさん撮影)。
御殿山庭園のサクラは未だ少し早めでした(TNさん撮影)⑨。
江戸時代に台場を作るために御殿山の土を使ったようですが、そのために掘った跡(御殿山庭園周辺)が下のように急な傾斜(深さ)になっている、とのことです(Iさん撮影)。
明治時代には、鉄道を通すため御殿山をさらに削っていますので、御殿山の変化は凄まじいものだったと思われます。
御殿山通りのサクラは庭園のサクラよりも少し進んでいました(Iさん撮影)。
その後、キリスト品川教会(4枚前の写真の塔)の礼拝堂を見学させてもらいました(Iさん撮影)⑩。立派なパイプオルガンがあり、三百人以上が着席でき、音響効果も良さそうで、コンサートホールとしてもよく使われているそうです。
この後、もと来た道を少し戻り、八ツ山橋に行きました。下は、八ツ山橋です(TNさん撮影)⑪。
下は、京急の鉄橋です(Iさん撮影)。
京急線の踏切です(Nさん撮影)。
橋を渡ると、旧東海道は北品川宿に入ります(Iさん撮影)⑫。
下はTさんの撮影です。
下は問答河岸の碑です(TNさん撮影)。ここで、将軍家光と沢庵和尚の問答があったと記されています。
下は、土蔵相模跡です(Iさん撮影)。高杉晋作が謀議をするために使った大鼓楼だったとのことです。
下は品川湊です(Nさん撮影)⑬。
上は、北品川橋の北側の湊で、下は同橋から南側を見た写真です(Nさん撮影)。江戸時代には、目黒川が海に流れ出る前に大きく北に湾曲し、この湊まで流れていました。
その少し南に品川浦公園があります⑭。
クジラの像があります。
下は、鯨塚です⑭(Iさん撮影)。
鯨塚の説明板です(Iさん撮影)。迷い込んだクジラの供養碑とのことです。
下は新しい鯨塚です(Iさん撮影)。
品川浦公園の横にある利田神社(かがたじんじゃ)です(Nさん撮影)。
ここでランチにしました。いつものとおり、ビールで乾杯もしました。
満腹になったところで、品川神社を訪ねました⑮。
品川神社の鳥居です(Nさん撮影)。
きつい階段です。
上に登るとこんな風景です(Nさん撮影)。
拝殿の方向を見たのが下の写真です(Iさん撮影)。
拝殿です(TNさん撮影)。
本殿の後ろ側に、板垣退助の墓があります(Iさん撮影)。
その横にある碑です(Iさん撮影)。
この日は、品川神社でお終いとしました。お疲れ様でした。