日本の仏教は、インドから、中国・朝鮮を経由し日本に伝わったもので、大乗仏教と呼ばれます。そのため、私達が街歩きで訪問する可能性のある寺院はほぼ大乗仏教の寺院ということになります。

ここでは、大乗仏教の教えがどのように誕生し、どのように変化したかを、経典を中心にできるだけ簡単に書いてみます。経典を中心に、といっても、経典の内容について説明するのではなく、どのような仕掛けで悟りに至るのか、という点を中心に書きます。釈迦の教え、あるいは経典の教えそのものを知りたい方は、それらに関係する解説本を覗いてみて下さい。たくさんありますのですぐに見つかると思います。

ところで、私達は、仏教経典、つまり、お教というものについて、殆ど知りません。法事などでお坊さんがお教を読みますが、普通は漢文で書かれたお教を音読みしますので、理解するのはほとんど不可能です。ただし、宗派によっては有名な般若心経が聞こえてくることがあり、その場合だけは、それと分かる人が多いかもしれませんね。

この記事では、大乗仏教の代表的ないくつかのお教について、内容を整理してみます。内容は、佐々木閑氏の「大乗仏教」に準じていますが、私の言葉で書き直していますので、間違いがあるかもしれません。その場合はご容赦を。

なお、この記事では、「ブッダ」と「釈迦」を以下のように使い分けます。

「ブッダ」は悟った人。普通名詞。

「釈迦」は歴史上の人物。固有名詞。

仏教の変遷

ここでは、初期仏教、上座部仏教、大乗仏教の3つに分けます。なお、これらについては、寺社訪問虎の巻 仏教の歴史をざっと見るという記事に書いてありますので、そちらも参考にしてください。

釈迦の生きていた頃の仏教、つまり、初期仏教は「悟りの宗教」としてスタートしました。つまり、自分の力で真理を探る、あるいは心の平安に至る、という宗教です。ちなみに、キリスト教や大乗仏教等は、神や仏を信じる人達を救う、という「救いの宗教」です。

悟りの宗教である初期仏教は、心理学的であり、かなり科学的な感じはするのですが、当時のインドにおける常識である、業(ごう)や輪廻(りんね)などの不思議な概念が基本になっていることも確かなようです。又、釈迦が生きていた頃には、悟るためには出家することがとても重要でした。なお、初期仏教とは書きましたが、経典のどの部分が釈迦の直接の言葉であるかを判断するのは非常に難しいことのようです。

釈迦が死んだ後、仏教徒は色々な考え方に分かれました。部派仏教と呼ばれます。部派仏教の中で、初期仏教の特徴を比較的残した上座部仏教は、インドから東南アジアに広がりました。釈迦の教えに忠実で、一人ひとりが出家し修行に励む、という教えです。

初期仏教や上座部仏教では、出家して修行をすることが基本になりますので、出家できない在家の人たちは悟りを得るのが難しい環境に置かれていました。そのような状況の中で、在家の人も含め大勢の人が悟りに至るようにしたい、大勢の人を救いたい、と考えるグループも生まれ、その後の大乗仏教への流れができました。大乗仏教は、「救いの宗教」としての性格を強くし、大勢の人を救うために神秘性(超人的なパワー)を教義に持つようになりました。

大乗仏教へ変わるための工夫

さて、出家せずに在家のままでも悟るに、あるいは、ブッダになりたいという望みを叶えるために、どのような手法があるのでしょうか。

だれでもブッダになれるようにするには、ブッダになるためのバリアを大幅に下げる必要があります。又、大勢の人々を一気に救済するためには、一人ひとりに対し厳しい修行を要求していたのでは、とても無理です。ここで、当然にも、神秘性、つまり、人知を超えた何かが必要になりました。

・「誰もがブッダになれる可能性がある」+「神秘性」

大乗仏教では、どの人も、ブッダになる可能性を持っている、と考えるようになりました。そのため、ブッダに至る道が大勢の人たちに開かれ、厳しい修行は必要がなくなりました。

その代わり、益々重視されるようになったのは、菩薩行、つまり慈悲に基づく行いであり、他人のために尽くすことが重要視されました。本当に実践するとしたら、こちらの方がむしろ大変かもしれません。今も、法話などで、慈悲の心を持つことが大事だよ、と聞くことが多いと思います。

更に、初期仏教には神秘性は殆ど無いのですが、大乗仏教では、呪文、人知を超えた不思議な力など神秘性が加わりました。悟りの宗教から救いの宗教に変わるためにはやむを得なかったのかもしれません。

・「悟りに至るロジック」

大乗仏教では、ブッダになるために不思議な仕掛けが必要なようです。何故、そんなことになったのかよく分からないのですが、多分、悟りに至る過程で見守ってくださる存在が必要と考えたのでしょう。さて、その仕掛けとは、ブッダになるための「授記(受記)」と呼ばれるプロセスが必要だ、ということです。授記(受記)とは、ブッダになるために、過去において、ブッダに会い、修行に励むことを誓い、頑張れよ、と励ましてもらうことです。

でも、ブッダになるためには授記が必要といわれても、当初、ブッダは一人しかいないため、そう簡単にはブッダに会うことができませんでした。おまけに、釈迦その人自身は初めてブッダになったとすると、受記ができないことになります。これは困りましたね。そのため、大乗仏教の経典が出来上がる過程で、誰もがブッダに会えるような、時空(時間的・空間的世界)を超える仕組み、後述のようなすごい「ロジック」が編み出されました。

様々な大乗仏教の経典

以下では、佐々木閑氏の「大乗仏教」を参考に、「般若経」、「法華経」、「浄土教」、「華厳経」、「大乗涅槃経」について、私なりに納得できる形にするため、以下の3つの観点で整理してみました。

「大乗仏教における位置づけ」

「悟りに至るロジック」

「具体的な教え」

般若経

「大乗仏教における位置づけ」

般若経典は、大乗仏教の初期に作られた、大乗仏教の基本となる経典ブループです。大小様々な経典からなります。般若心経はその一つで、非常にポピュラーですので、おそらく知らない人はいないと思います。

いずれの般若経典も、「空」を非常に重視しています。又、「空」は大乗仏教での共通的な重要ファクターでもあります。「空」については、寺社訪問虎の巻 「空」とは何かという記事に具体的に書きましたのでそちらを参考にしてください。

般若経典は、初期仏教や上座部仏教を非常に軽視・蔑視しているのが特徴です。上座部のグループと論争していた頃にできた経典のためかと思います。声聞道(釈迦の教えを直接聞いて悟ること)と独覚道(自分の力で悟ること)は小乗で一段低い教えであり、菩薩道(大乗の教えに基づき悟ること)は大乗で本来の教えである、と区別されています。

「悟りに至るロジック」

般若経では、ブッダは大勢いて、私達は、実は、誰もが、過去にブッダの誰かに会っているので、私達は既に受記し菩薩になっている、つまりブッダになる可能性をもっている、とされています。これは、輪廻とも結びついており、私達は前世に受記しているのですが、誰も前世の記憶を持ってはいないので、覚えていなくても矛盾はないようです。なお、釈迦も遠い昔にブッダに会い受記し、悟ることができたのだそうです。

「具体的な教え」

般若経では、。善行(菩薩行)を行い、「空」を理解すればそれでよいのです。ブッダへ至るための障壁が大幅に低くなりました。

初期仏教では、瞑想修行して煩悩を断ち切ることで悟りに至る、とされたのですが、般若経では出家をしなくも「空」を理解すれば煩悩を断ち切ることができ、それが悟りへの近道となりました。「空」は初期仏教では「無我」とほぼ同じものと捉えられていたようですが、般若経典では、「空」はとてつもなく重要な概念に変化したことになります。

そして、般若経はお教そのものに不思議な力がある、とされました。具体的には、お教にはブッダが宿っている(法身)と解釈されており、お教を読むこと、写経すること、それ自体に大きなご利益があるのです。

ところで、「色即是空・空即是色」は般若心経にある有名なフレーズですが、これは、「色」とは物理的現象だとし、「空」は実体がない、と解釈するならば、「物理的現象には実体がなく、実体のないものこそが物理的現象である」みたいな一見不可思議な意味になります。

「空」とは、実体がない、つまり、関係性(世界は因果により生じる)があるだけと捉えることができます。それを理解することはなかなか難しいのですが、龍樹(ナーガールジュナ)は「中論」という解説書で、「空」から神秘性を取り除き、言語学的に説明しました。「空」を神秘性を除いて説明する方法として、物理学的に説明することもできるようです。技術系の人間には物理学的な説明の方が格段に理解しやすいといえます。「空」については、寺社訪問虎の巻 「空」とは何かという記事を参考にしてください。

法華経

「大乗仏教における位置づけ」

般若経では小乗の声聞道・独覚道は大乗の菩薩道より一段低くみられていました。しかし、法華経ではこれらの道は悟りに至るための対等な方法とされました。そして、すべてまとめたものが一仏乗とされました。驚くべきことに、釈迦が弟子に教えた悟りへの道(これが声聞道)は実は方便(ウソ)であり、真実の教えは別にあり、それが一仏乗なのだ、という説明までしています。

なお、「空」についてはあまり強調していないらしく、「空」の力に頼らずに、お教そのものの力を重視しているようです。つまり、般若経典と同様、法華経でもお教そのものに絶大な力があるため、法華経を信じることが悟りにいたる道で重要なこととされています。

「悟りに至るプロセス」

授記(受記)の問題、つまり、なかなかブッダに会えない、という問題を法華経ではどのように解決したか、というのは、次のとおりです。

法華経には「 久遠実成(くおんじつじょう」という教えがあり、「釈迦は永遠の過去から悟りを開いたブッダとして存在し ていて、実は死んではおらず、私たちのまわりに常に存在している」ということになっているようです。だから、私達はいつでも釈迦に会うことができるようなのです。実際、釈迦は法華経にも宿っているのです。

「具体的な教え」

上にも書いたように、経典を崇めることが悟りへの道、という考えが法華経に書かれています。つまり、このお教を信じることは、日常的な問題を解決し、悟りへの道になるのだ、とお教自体が主張しているのです。そのため、この教えでは、現世利益も得られる、という特徴が強調されます。

ただし、経典には、法華経(自分)は素晴らしいと書いてはあるものの、悟りに至る方法については書かれていない、という評価もあるようです。

浄土教

「大乗仏教における位置づけ」

他の経典では、修行など何らかの努力をしてブッダになることを願うのですが、浄土教系の経典では、南無阿弥陀仏を唱えることにより、救われる(ブッダになれる)と考えます。現在一般には、死ぬと極楽に行ける、という教えだと思われています。つまり、本来の悟る宗教から救われる宗教に明確に性格を変えています。

「悟りに至るプロセス」

浄土経では、私達は既に受記しているのではなく、これからブッダに会って、菩薩になり、ブッダになる、と考えます。そのために、以下のような仕組みが用意されています。

浄土教では、世界はマルチバースなのです。つまり、世界には大勢のブッダがいて、夫々のブッダは自分の国(世界)にいて衆生を救うために待機しているのです。従って、ブッダに会うチャンスは大いにあります。特に、数あるブッダの中で阿弥陀如来がとても信頼できる仏様で、阿弥陀如来に頼むと、確実に、私たちを極楽浄土に呼び寄せてくれるのだそうでうす。この頼み、というのは、「南無阿弥陀仏」と唱えることです。私は阿弥陀仏に帰依します(信じます)、という意味です。この場合、修行は必要ありません。むしろ自力でどうにかなろうとするのではなく、阿弥陀の力にすがる(他力)ことが大事なのです。

「具体的な教え」

浄土教の本来の教えは、死んだら極楽浄土に行き、そこで修行しブッダになる、ということなのですが、南無阿弥陀仏を唱える人は、浄土に行った後に修行をするとは思いもよらないことで、浄土に行ったら無条件で幸せに暮らせる、と思いこんでいるようです。

なお、浄土教は、大乗仏教ですので、日々の善行(利他的な行動、菩薩道)が重視されます。当然にも、自分が救われることを目的として善行をするのはいけないことで、見返りを求めずに善行することが大事とされます。いいですか。善行の意味が分かりましたか?

浄土信仰は、キリスト教などの唯一神の信仰と構造が同じで、救いの宗教の性質を持っています。

華厳経

「大乗仏教における位置づけ」

華厳経は、密教のベースになる経典です。奈良の大仏である盧遮那仏(大日如来とも呼ばれる仏)が主人公です。お教では、悟りに至る道が示されますが、見どころは、荘厳・豪華な世界観だそうです。

なお、華厳経は、奈良時代には鎮護国家と結びついた非常に重要な経典でした。

「悟りに至るプロセス」

浄土教では、マルチバースの中の宇宙の夫々にブッダが住んでいるとされました。華厳教でも同じくマルチバースなのですが、華厳経のすごいところは、各世界の間はネットワークでつながっている、と考えるところです。つまり、どの世界にいても、VR(仮想現実)を用いて他の世界のブッダに会うことができるのです。上に書いた盧遮那仏(大日如来)がブッダ達の中心ですが、すべてのブッダが盧遮那仏に繋がり、かつ、すべてのブッダがすべての世界(浄土)につながっているのだそうです。そのため、ブッダに会う機会は桁違いに増えます。言うまでもありませんが、華厳経に、ネットワークやVRという単語は出てきませんのでお間違いのないよう。

「具体的な教え」

華厳経では、どの人も仏性を持っているので、悟りの方法についてはあまり問題にしていないようで、自分がブッダであることに気づけばそれで良い、ということのようです。

華厳経には、「一即多、多即一」という概念、つまり、小さな塵の中に宇宙があり、宇宙というのは小さな塵のようなものである、という考えがあります。このようなお話は、いわゆる伝統的日本文化の中でよく聞くお話の感じがしませんか。

真言宗などの密教は、そもそもは、仏教にヒンズー教の呪術的な要素が組み合わさり発生したようですが、華厳経などの経典を取り込み、密教の教義が整えられていったようです。なお、密教の加持祈祷は、悟りのプロセスではなく、現世利益のための祈りのようです。

大乗の涅槃経(大般涅槃経)

「大乗仏教における位置づけ」

初期仏教の経典に涅槃経というのがあるのですが、大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)は、それとは異なる、大乗の涅槃経です。

この経典では、ブッダは私達の中にあると説く、如来蔵思想が重要な教えとなります。私達は、「一切衆生悉有仏性」という言葉で耳にすることがあるかと思います。これは、生きているものはすべて仏になる可能性がある、という、日本の大乗仏教の基本的な教えになっています。

「悟りに至るプロセス」

今までのお話では、ブッダになるには受記が必要でした。しかしながら、大般涅槃経では、もともと私達の中にブッダがいる、だから他のブッダに会う必要はないので、他の経典に書かれているロジックは不要だ、ということになりました。日本の現在の大乗仏教は、殆ど、この考えを採用しているようです。私達の中にはブッダがいるのだ、ということはお坊さんの法話などで聞いたことがあると思います。日本人には、輪廻の思想はあまり普及していませんので、この考えは受け入れやすい、というか、日本仏教界の救世主的なアイデアということになります。上に紹介した経典で苦労して生み出された「悟りの手続き」が不要になった感があります。

なお、正確には、私達の中にブッダがいる、ということではなく、わたしたちの中に仏性を持つ、ということです。これは、無条件にブッダになっている、ということではなく、ブッダになる可能性がある、という意味になります。つまり、後はあなた次第、ということですよ、

「具体的な教え」

神秘性は一見なくなり、初期仏教に戻ったようにも見えますが、実は大きな違いがあります。上に書いたように、仏教では無我を説いたのですが、ここでは、自分の中にあるブッダに気づきなさい、と言っていますので、自分には我がある、ということになりますので初期仏教とは性格が大きく変わったことになります。

日本人の仏教観

以上、経典による悟りの違いを書きました。何かをつかんでもらえましたでしょうか。

上に書いた各経典のポイントが理解できると、我々の日常的な仏教的な発想がどこから来ているのか、だいたい分かりそうな気がしてきます。

・私達は死んだら極楽に行くような気がしています。それは、浄土教の教えです。

・ひょっとすると、死ななくてもブッダになれそうな気がします。それは 華厳経、法華経、般若経の教えです。これらのお教が悟りへの道を開いてくれました。

・お坊さんの説教でたまに、誰しも自分の体の中に仏を持っている、と聞きます。これは、大乗涅槃経の教えです。

・私の中に宇宙があるような、あるいは宇宙とつながっているような気がします。それは、華厳経の教えです。

・お寺でお参りするときに、なんとなく現世利益があるような気がしています。それは、法華経、華厳経の教えです。

・護摩や大音量の加持祈祷は、ご利益が大きそうです。それは、華厳経の教えです。

日本人の大多数は、死んだときに、特に理由がなければ自分の家の決まったお寺さんに葬式を頼み、お教を上げて成仏させてもらいます。宗派によってお教が違うとしたら、ひょっとすると、何か期待と異なる結末があるかもしれない、と不安になるかもしれませんが、ご心配なく。上に書いた経典とは関係なく、どの宗派でも(多分)きちんと弔ってもらえますのでご安心を。