以前、「諸行無常」と量子力学の関係が話題になったことがありましたが、その際、その関係について具体的なお話しにはなりませんでした。ここでは、「諸行無常」と同じ基本概念を持つ「空(くう)」を主題にして、その解釈の仕方についていくつか書いてみます。そのなかで、量子力学との関係も書きます。

大乗仏教において、「空(くう)」は非常に重要な概念のようです。般若心経には「色即是空・空即是色」という非常に有名なフレーズがあります。「色(しき)」とは物理的現象であり、「空」は実体がないこと、と解釈するならば、「物理的現象には実体がなく、実体のないものこそが物理的現象である」みたいな一見不思議な意味になります。

ここでは、その「空」について、いくつかの視点からできるだけ簡単な言葉で、その概念、感覚を掴むことを試みます。そのため、この記事では、難しい仏教用語はできるだけ避けるようにしています。というか、難しいことは私自身もよく分かっていませんので。

「空」についての、ひとまずの説明

「空」と聞くと、何も無い、とか、空っぽのイメージがしますので、「空」を重視するのはニヒリズム(虚無主義)なのではなかろうか、という思いに駆られますが、実は、「空」というのは、有るのでもなく、無いのでもない、難しい概念のようです。

ところで、仏教で用いられる言葉である、「諸行無常」、「諸法無我」、「縁起」、「空」は仏教の基本的概念で、いずれも、「空」とほぼ同じ意味を持つようです。と書くとますます分からなくなりますね。でも、これらが共通に意味していることは、世の中に変化しないものは無い、永久に変わらぬ実体はない、その変化は縁起(原因と結果)からなる関係性だけに基づく、という考え方です。それらの中で、「空」は、世の中は関係性だけに従って変化し続けるもので、定まった実体はない、ということを強調してはいますが、それにしても、これらの言葉は皆ほとんど同じ、という意味もなんとなく分かると思います。

「空」の意味は基本的には上の通りだとして、「空」が実際の場でどのように使われるのかを、ざっと書いておきます。仏教で解決しようとしていることは、私達が生きるには常に「苦」がつきまとうため、この「苦」から如何にして開放されるか、ということにあります。「苦」とは、文字通り苦しいこと、恐怖をよぶことでもありますし、思い通りにならないことも含むようです。

さて、「苦」の代表例として、例えば、恐ろしく不安に満ちた「死」を考えます。仏教では、「空」を用いて次のように説明します。つまり、我々が普通に恐れる死というものは実はないのだよ、思い込みで死のイメージを自分で作っているだけなのだよ、だから、死は「空」なのだと見るといいよ、そうすると、死の苦しみから逃れられるよ、という具合です。

私達は普通、死というのは恐ろしいもの、不安なものと考えます。あるいは、思い通りにならないものと考えます。日常の会話でよく「もういつ死んでもよい」みたいなことをいいますが、でもそう簡単には死ねないと思います。死ぬと私がいなくなるわけですが、私のいない世界なんて考えられません。死んだらどこか恐ろしいところに行くかもしれません。死ぬと恐ろしいことが起きるかもしれません。何しろ、死んだ後戻ってきた人はいないわけですので、死んだらどうなるか分かりゃしません。しかし、眠っている間に死んでしまい朝になっても起きてこないだけ、と考えると、ただ単に意識がある状態から眠りと同じ意識がない状態に変化しているだけですから、なんら恐ろしいことが起きるように思えません。このようにして、死は「空」であるとみると、死は恐ろしいものだという思い込みを除くことができ、死の恐怖から逃れられることになります。人というのは、かなりの部分思い込みで生きていますので、世の中を「空」と見ることで、心を落ち着けることができます。

死んだ後も残るものは霊ですが、それは「我」に該当すします。釈迦は「我」の無いこと、つまり、霊魂のないことを主張したことにもなります。このように、釈迦は何ら神秘的なもの、超人的なものを教えの中に含ませていませんでした。

ところで、いろいろと人に知られたくないことがたくさんある、という方々は、普段から身辺整理をしておかねば、安心して死ねません。こういう問題については各人頑張って元気なうちに解決しておいてください。

もしあなたが信仰をもっており、死後の世界にイメージがあるのでしたら、死を「空」とみなすことはできません。死んだ後もあなたは存在するかもしれません。

さて、以上の説明で「空」が理解できたという方はもうそれでよいのですが、まだしっくりこない、という方には以下に追加の説明を用意してあります。神秘的な説明から理詰めの説明までいろいろあります。

般若経典での「空」の説明

釈迦が生きていたころの仏教、および、東南アジアに広まった上座部仏教では、「空」は特別視されておらず、「無我」や「無常」と同じような意味合いのことばとして使われているようです。

しかし、般若経典では、「空」を理解すればそれで悟りに至ることができる、と約束していますので、「空」はとてつもなく重要な概念に変化し、それとともに、神秘的な力を持つ言葉、として扱われるようなりました。このように、「空」は大乗仏教の重要タームとなりましたが、釈迦の教えからは相当ずれたのかもしれません。

般若経典というのは大乗仏教の基本となる経典で、般若教に関する経典群を指し、よく知られた般若心経を含みます。

般若心経に書かれた「色即是空・空即是色」はとても有名なフレーズです。このフレーズに従い、「空」について考えてみます。

「色」とは物理的現象だとし、「空」は実体がない、という意味だと解釈するならば、「物理的現象には実体がなく、実体のないものこそが物理的現象である」みたいな不可思議な意味になるのが悩みのタネです。ここで、「空」は実体がないという意味、と書きましたが、関係性だけがあること(縁起}を実体がないと表現していることに注意してください。

仏教では、人間が自分の周りの状況を理解して意思の作用で人として活動する全体を五蘊(ごうん)と呼んでいます。五蘊は、「色」、「受」、「想」、「行」、「識」からなります。「色」とは、我々の周りにある物質、「受」は外界からの受け取る感覚、「想」は心に思い浮かべること、「行」は意志などの心の作用、「識」は認識、判断をする働きです。

般若心経では、五蘊のそれぞれが空であるとしてあります。が、エッセンスのみが書かれているため、「空」とはどういうことであるのか、という説明は不十分です。

なお、般若心経は、お教自体に不思議なパワーがあり、唱えるだけでその力をもらえます。また、写経することでパワーを貰えるそうです。つまり、般若経典には神秘的なパワーがあることになっています。この辺になると、初期仏教とは全く異なる雰囲気を感じます。

「中論」での「空」の説明

上に書きましたように、般若経典では「空」に神秘的な力を付与したのですが、それはちょっとなんだかなぁ、という方達には、「空」の神秘的な要素を抜きにした説明が欲しいはずですよね。

龍樹(ナーガールジュナ)という人が、「中論」という解説書で、神秘性を取り除いた形で「空」の説明をしました。中論は、大乗仏教にとり非常に重要な解説書のようであり、そこでは、「空」について言語学的な視点からの説明が中心になされているようです。しかし、私にはとても難しくて、平易な説明はできそうもありませんので、ここではその説明を省きます。興味の有る方は、「中論」を解説している本を読んでください。

自然科学的な「空」の説明

「空」から神秘性を取り除いた形で説明する方法として、物理学的に説明することもできるようです。これが、この記事で書きたかったことです。私のような技術系の人間には、物理学的な説明の方が格段に理解しやすいことは確かです。

「色」について

先ず、「色(しき)」とは何か、ということですが、「色」には、眼に見えるもの、実体という意味があるようで、多義的なのですが、ここでは、物質と考えましょう。

ある物質を細かく見ていくと、分子、原子、素粒子と細かく分けていくことができます。その究極である素粒子は、それ以上分けられないもので、大きさはない、が、電荷やスピン、エネルギなどの物理的性質があるだけとされています。様々な素粒子はお互い関係しあう規則だけがわかっていてそれ以上のことは分かりません。これは、量子力学、素粒子論のレベルです。ここから、物質が結局のところ関係性だけで表されること、つまり、「空」であると言われると、なるほどな、そうきたか、と感じられるところです。

次に、「色(しき)」として、目に見える色(いろ)の場合を考えてみましょう。

色(いろ)は、ある波長の電磁波(光)を眼で見ると様々な色として感じられるだけであり、赤い色、青い色、などというものは存在しないことは皆さんご存知のとおりです。色があると思ったのは、実は、単にある種の電磁波が飛び交っている(光子が振動している)のを見て脳がそのように感じているだけのことです。つまり、色(いろ)というのは「空」ですね。

音はどうでしょう。音は耳には聞こえますが、これは空気の振動(空気の疎、密の変化、つまり、気体分子の動き)が聴覚に働きかけて音として聞こえている、ということですので、実際にあると思われる音は単なる分子の動きにすぎません。これも「空」ですね。

眼の前にテーブルがあるとして、手で触ると存在がわかります。ではそこに実体があるではないか、と言いたくなりますが、事実としては、テーブルを構成する原子と、手を構成する原子との両方に含まれる電子による力が影響を及ぼし合っているに過ぎないことは理解できますよね。そうすると、触覚も空ですね。

ということで、マクロな世界では物質としてある、と思っていたのに、ミクロの世界ではそこに人間が感じているようなモノがあるのかどうかが分からなくなります。例を上げるのはこの辺りで辞めにしておきましょう。

このようにして、「色即是空」のいいたいことは感じていただけたことと思います。

ところで、逆に、素粒子みたいななんだか分からないものが無いと、物理的現象つまり実体と感じられるものができあがらないのです。つまり、「空即是色」なのです。空があるから物体があるのです。

以上の説明で、「空」と物理学は相性がよい、という感触を持たれたことと思います。

「受」、「想」、「行」、「識」について

「受」、「想」、「行」、「識」の意味は上に書いてあります。これらは、感覚や意識に関係することですので、脳科学的な説明がよさそうです。なお、「受」については、上の「色」のところでも少し触れてしまっています。

「受」について。感覚器官で外界から受け取った情報は、ニューロンを流れ処理されます。感覚器官に入った刺激は、単なる電気的なパルスとなり伝わっていきます。パルスはモノでしょうか。単なる現象ですので、モノとは言いづらい状態になています。神経細胞の電位の変化に過ぎませんし、それらが関係しあい、何らかの状態を生じますので、「空」と表現するのはあながち的外れではありません。

脳におけるその先の高度な処理(意識)なども、同様です。「空」としても構わないような気がしてきます。

以上、物体も心の作用も空であることを、現代物理学や脳科学の知見を用いて書いてきました。しかし、このことは、釈迦や、龍樹が現代物理学や脳科学を知っていた、ということでは決してありません。「空」については別の視点からの解釈もできるよ、というだけのことです。「空」という難しい概念を理解するための助け程度とみなす方が無難なようです。

結局「空」とは何か

どうやら、世の中は、有るよと主張するのも無いよと主張するのも無理があるようです。釈迦は、何事も中庸を行くのがよい、と教えたそうです。この教えが、仏教における、「中道」であり、その根本は、「縁起」や「空」(無常も無我も)と共通の教えとされています。

そうなると、「空」とは、極端を避け、徹底を避ける、ということですので、ひらたい言葉でいうと「あまりこだわりなさんな、ほどほどにしよう」ということになりそうです。

ちなみに、私は我が家の墓に「空」と彫りました。孫たちには、死んだら空からみているからね、と説明してあります。