「新アジア仏教史13 日本Ⅲ 民衆仏教の定着」末木文美士他編(佼成出版社 電子書籍版 2018)

この巻は『新アジア仏教史』シリーズ(全15巻)の日本編第3巻で、近世における民衆仏教信仰、寺院をめぐる仏教世界を記述しています。この巻の目次は次のようになっています。

第1章 キリシタンと仏教
第2章 近世国家と仏教
第3章 仏教と江戸の諸思想
第4章 教学の進展と仏教改革運動
第5章 幕府寺社奉行と勧進の宗教者―山伏・虚無僧・陰陽師
第6章 「葬式仏教」の形成
特論Ⅰ 仏像を通して見る古代日本の仏教
特論Ⅱ 仏教建築の変遷

第1章 キリシタンと仏教

この巻は、仏教とキリシタンの邂逅から始まります。このとき、キリシタンとの間で宗論(宗教論争)が行われました。ザビエル達は日本における信仰を知る必要があり、日本側では僧達はキリスト経に興味を持ったことによります。神について、霊魂について、救済について、その他、キリスト教と仏教を対比されました。なお、イエズス会は、キリスト教の教えと当時の西洋科学を合わせて自分たちのものとし、自分たちが進んでいることを主張しました。

キリシタン側は、天球論で仏教的世界観を乗り越え、霊魂の理性的な働きとその不滅を主張し、信者には道理、信仰論、三位一体、を説きました。日本側は、キリシタンの教義に対しては仏教側も神道側も十分対抗できなかったようで、キリシタン信仰が盛んになり、戦国大名を中心にキリシタン信仰は広まりました。しかしその後、秀吉はキリシタンを問題視し追放し、家康は禁教令で明確化したことはよく知られたとおりです。

第2章 近世国家と仏教

仏教では、本来は出家制度があり世俗世界と距離を置くことが基本でした。しかし、日本の仏教は世俗世界との差が小さい状態が続きました。そのため、明治期には仏教の世俗性が批判されました。中世社会では宗派間の競争が激しかったのですが、近世には檀家制度が導入され安定した環境になったことも世俗化に大きく関わりました。

中世後期には談義所(学問活動の場)が活性化しましたが、その頃は、宗派の違いは重視されませんでした。しかし、時代が下ると広範な人々が説法の対象となり親しみやすい解説が行われるようになり、それに応じて、経典の解釈をおこなう僧侶も増えました。これが、近世になると自宗派内での教学研鑽が中心となります。

中世後期から近世初期というのは、現代につながる社会や文化の仕組みが出来上がった時代で、仏教との関わりでは「家」の成立があります。それまでの大家族から両親と未婚の子女を基礎単位として複数が集まった集団へ移行しました。この際、原則的に男子が家長となります。戦国時代には、それまで弱小勢力であった教団、日蓮宗、浄土真宗、曹洞宗が家と連携し発展、それまでの氏寺にかわり「家」ごとの祖先祭祀が始まりました。つまり、菩提を弔う寺が必要となり、葬送儀礼が発展しました。当時の人々にとって自分が死んだ後に葬式を出してもらえることは端的な救済だったわけです。

十五世紀に武士・土豪層・上層農民層において集団墓が成立し、簡易な火葬が普及し、戒名が一般化しました。それまでは、死は穢れであり葬儀に関わるのは一部の僧侶のみでした。しかし、16世紀には、人の本質は清浄なものとみなすようになり、それと先祖を祀ることが一般化し多くの寺が作られていきました。とにかく、ここで、誰もが死ねばホトケになる、という観念に到達したわけです。

近世には、本末制度、寺檀制度ができ、それをキリシタン禁止に使ったらしい。というのが最近の研究結果だそうです(私たちは、キリシタン禁止のため、寺請制度ができた、と教わっています)。

近世には仏教社会の再編がおきました。中世の宗教勢力の中核であった南都北嶺の僧侶たちは荘園あるいは本所として収入源を確立していましたが、中世的な社会秩序が崩れると、学僧としてのあり方を変えねば経済的に苦しくなっていきました。そのため、下層の僧たちは念仏系の活動と葬礼に携わり経済力を得ました。これに伴い、いわゆる鎌倉新仏教の教団組織は教義の世俗化が進み、大きく成長しました。

徳川の時代は、家康や徳川家が特別な存在で、聖なる存在であるとする言説が生み出されました。徳川将軍家に重要な寺は、祈祷寺である寛永寺と菩提寺である増上寺でした。つまり、現世は寛永寺、来世は増上寺、という位置づけです。この後、天台宗と浄土宗が優位を争うことになります。天台宗は、東照宮を増やし、家康を権現様として、始祖神話が形成されました。「公儀」は単なる権力ではなく「御威光」の源として、信仰に似た感情の対象となっていきました。

第3章 仏教と江戸の諸思想

ここでは、江戸時代の、仏教と諸思想(儒学、神道・国学、蘭学・西欧自然科学)との関連、排仏論と護法論が取り上げられています。

古代以来の伝統で独占的な地位を占めた仏教が、諸思想との対立で相対的な地位を下げ、「日本」「天皇」という概念が浮上しました。これは、明治の神仏分離・廃仏毀釈につながる思想です。江戸時代の諸思想は以下のように三期に分けられます。

第1期 17世紀の儒仏論争の時期。林羅山、山崎闇斎の排仏論。
第2期 18世紀前半。荻生徂徠が登場し、多様な思想が花開く。三教一致論が主流になる。
第3期 18世紀後半。本居宣長の国学登場以降。排仏論は、平田篤胤と後期水戸学が中心。

第1期の儒仏論争の代表、林羅山の排仏論は次の通りです。
第一は、反倫理性(仁義礼智信を否定する)。更に、武士、町人、百姓はそれぞれの役割を果たしているのに僧侶は社会的に何の役も果たしていない。
第二は、因果応報、輪廻転生の生死観。儒者は聚散論(天地間のものは、気が集まれば生まれ、気が散ずると死ぬ)。仏教において、民衆への説法・教化が課題だったため、この時代は因果応報説が中心となったようだ。
第三は、仏教は夷狄の教え。日本でこの論を張るのは矛盾(と、儒者が主張するのは矛盾がありますが)。
第四は、政治的経済的損失。僧侶無用論と重なる。

第二期の三経一致論では、神道がクローズアップされてきます。

第三期の平田篤胤と後期水戸学が主流となります。

第4章 教学の進展と仏教改革運動

江戸時代に入り、戦乱による打撃と混乱から立ち上がり、新しい時代に即した思想を模索し始める時代となりました。

徳川幕府の政策としては、寺社奉行を設置し、江戸触頭(ふれがしら 築地本願寺、浅草本願寺、増上寺など)を定め、寺院法度を定めました。寺檀制度と本末制度により、民衆を管理するとともに、本山と末寺の主従関係の明確化しました。このように、幕府は仏教教団を制約するとともに、一方、学問を大いに奨励しました。

この時代、檀林が隆盛しました。浄土宗檀林については、関東に十八檀林を選定し、天台宗、真言宗、浄土真宗の二派、曹洞宗、日蓮宗にも設けられました。曹洞宗では、旃檀林が設けられ、これは本郷駒込に移り、その後、駒澤大学になっています。この旃檀林は、昌平黌と並び江戸漢学の二大中心地となりました。

一方、この時代の科学的排仏論は儒学系知識人(富永仲基、山片蟠桃等)が主張しました。仏教の宇宙像や地獄極楽説、輪廻転生などの神秘的な説を批判しました。山片蟠桃の須弥山説論争や富永仲基の大乗非仏説論争が目を引きます。富永仲基は、仏教の世界像は、単なる心理を語っているに過ぎない、釈迦の本意はそこにない、と述べ、更に大乗非仏説や教説を順次付け加えるという意味の加上説を提出しました。律僧であった普寂(ふじゃく)は、この世の凡夫は釈迦の正しい教えである小乗仏教を行うべきで、大乗仏教は来世の浄土でこそ実行可能な教えであると主張しました。日本仏教が近代的変容を遂げるにあたり思想的な方向(信仰と学問を分離)を示しました。

第5章 幕府寺社奉行と勧進の宗教者―山伏・虚無僧・陰陽師

この章には、民間宗教者、山伏、陰陽師などの解説があります。

第6章 「葬式仏教」の形成

現代日本の葬送儀礼は、仏教と葬式が混淆した「葬式仏教」として存在しています。寺院は、経営的性格を持ち、墓苑・霊園経営もしています。なお、通夜・告別式は葬祭業者がリードして行っています。このような習慣はいつどのようにできたのか、がこの章で述べられます。

古代日本の仏教には葬祭儀礼の機能はありませんでした。葬送儀礼と仏教が習合するのは、平安時代の浄土信仰がきっかけのようです。この浄土信仰は、鎌倉仏教(浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗など)に継承されていきました。そして、鎌倉・室町時代に仏教と葬送儀礼の習合は一般化したようです。僧侶の葬送儀礼を僧侶以外にも適応させた曹洞宗・臨済宗などの禅宗がそれにより教団を成長させていきました。

葬式仏教の広まりには、幕府による、民衆支配の手段として、宗門人別帳の形成も関与しています。ここで、少し言葉の整理が必要ですが、宗門改帳とは、人毎の宗派を調査したもので、キリスト教禁圧のため寺請制度と重なります。人別帖とは、村、町毎に、家数、人数などを調査したものです。両者が合体し宗門人別改帳(戸籍の働きをした)となり、これを通して、寺院が幕府の支配機構の末端に位置するようになりました。寺請制度とは、寺院が民衆に対して身分を証明する制度で、寺檀制度とは、寺請制度と内容は同じですが、幕府が民衆を支配する道具になりました。

このような政策により、葬式仏教が支配制度の中に組み込まれていきました。また、戒名と位牌、仏壇の定着がすすみ、民間の葬送儀礼 檀那寺が葬儀、様々な供養に関与することになりました。

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