「新アジア仏教史14 日本Ⅳ 近代国家と仏教」末木文美士他編(佼成出版社 電子書籍版 2018)
この巻は、日本編の4巻目で、明治以降を扱っています。明治になって起きた最大のできごとは神仏分離でした。末尾に目次で示しますように、この巻では多岐にわたる記述がありますが、この記事では、明治始めの神仏分離に伴う廃仏毀釈と比較的最近の水子供養とについて書きます。
廃仏毀釈の打撃
一連の神仏分離に関わる法令に伴う廃仏毀釈に関わる歴史は、明治5年以前を第1期とし、形式破壊の時代、明治5年以後を第2期として、内容破壊の時代として記述されています。
第1期
法令としては、寺請制度の廃止と戸籍法、肉食妻帯の解禁、特権的身分の解体などが次々と発令されたようで、経済的には特に、上知令による仏教界の経済基盤の脆弱化が大きかったようです。
明治政府は、復古神道を国家体制の基軸の一つとする宣言をしましたが、これは復古神道家、国学者が主導しました。ただし、この動きは地域によってかなりの程度の差があったようです。明治政府は、宣教師制度を作るなどして神道国教化を目指したのですが強化政策に失敗しました。当初は、神道の教説を神官・国学者が説諭していたのですが、それだけでは不十分で、説教者として僧侶の力量を必要としました。しかし、協力を仰ぐには、僧侶も納得できる新たな教化綱領が必要になりました。
第2期
神官・僧侶総動員による民衆教化政策の時代になりました。第1期での変革が本格化した、といえます。とはいえ、明治5年、宣教師性がうまくいかないため、教導職制が成立しました。この制度の下、僧侶は教導職に任命されれば住職となれることになりました。結果的には、これにより、神道偏重への対抗、地方官の廃仏的傾向への対処が可能になったといえます。教導職制の下で、仏教側は教化に注力し、学校教育も利用し、活躍できる社会的領域を切り開いて行くことになります。
水子供養
昭和45年頃から一般化し、水子供養という言葉も使われ始めたようです。それ以前は、亡くなった胎児に対しては、成仏させない、つまり、生まれ変わりを期待する、という葬法が行われていたようです。しかし、昭和45年ころからは、亡くなった胎児の祟りを恐れる、又は、胎児に対する申し訳なさ、という受け止めに変わったようです。つまり、それまでとは逆に、水子の成仏を望む、ということになりました。
その頃を思い出すと、相当なオカルトブームの時代でもありましたが、水子供養を推進した宗教者・寺院が水子の祟りを強調したことは確かそうです。それは、中絶を余儀なくされた女性の傷につけ込むものとなるため、曹洞宗、浄土真宗では禁止の動きが一部にあったようです。そのような経緯をたどりましたが、現在は水子の祟はあまり強調されなくなっているようです。
この巻の目次
第1章 明治維新と仏教
第2章 近代仏教の形成と展開
第3章 仏教者の海外進出
第4章 国民国家日本の仏教―「正法」復興運動と法華=日蓮系在家主義仏教
第5章 戦争と仏教
第6章 戦後仏教の展開
特論 仏教研究方法論と研究史
