マルクス・ガブリエルの新実在論

先日、近くの本屋でたまたま目についた、M.ガブリエルの「時間・自己・幻想」(PHP新書)を買いました。以前、ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」を読んだのですが、新実在論とは何かがよく分からないままほったらかしてありました。何か少しは得るものがあるかと思い「時間・自己・幻想」を読んでみました。ガブリエルが、仏教や道教などの東洋思想に詳しいことはわかったのですが、しかし、新実在論については、やっぱりよく分かりませんでした。

道教についてはさておき、仏教については、納得できるところもあるが、そうでないところもある、という感じでした。様々ある仏教の教えの中の一つだけ取り出して、それについて議論している感じが強くします。それもやむを得ないことかもしれません。

新実在論については、本の終わりの方に、対談形式の説明があったので読んでみました。どうにも、ピンときません。

新実在論

私の感覚では、新実在論の特徴は、物理的な存在に加え、頭で考えたことも実在である、と主張することにあるように思えます。
しかし、ガブリエルによると、新実在論の主張するところは、
1.私たちは物、現実をあるがままに知ることができる
2.世界は存在しない
だそうです。その説明では、1.については、あるモノについて、私の見る現実と他の人が見る現実は少しだけ違う、というようなことは確かに書いてあります。しかし、私たちは現実をあるがままに知ることができる、のだそうでので、どうやら、「物」、「現実」、「知る」という言葉の意味が、書く度に何かしら異なっているようです。としか、考えられません。

2.については、現実は様々な断片(「意味の場」と読んでいる)の集まりであり、これらが結びつかない、つまり、世界は無い、と言いたいようですが、これだけでは、まったく理解できませんでした。

ということで、新実在論の理解が少しは進むかと思い読んでみたのですが、何の進歩もありませんでしたので、以前、理解できずにそのままに放ってしまった「なぜ世界は・・」をもう一度読み直してみました。

以下では、「なぜ世界は・・」に基づき書きます。

全体的な印象として、やはり、書かれていることを文字通りには解釈してはいけないようです。また、使う言葉をその時ごとに定義し、それについて議論している感じがします。その定義が納得できるか、というと、私には難しいことが多くて歯が立ちませんでした。なお、原著は読んでいませんので(読む能力がないので)訳が正しいものとしています。

さて、1.については、上に書いたような印象が依然として残ります。

2.については、「世界」、「存在」が特別な意味を持っているようです。
「なぜ世界は・・・」の「Ⅲなぜ世界は存在しないのか」には、「世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がその中に現象してくる意味の場である」とあります。やはり、「世界」とはかなり難しい定義がされています。そのような「世界」は無いのだよ、といわれてもああそうですか、となってしまいます。なお、「意味の場」については説明を読むとわかります。
しかし、「それ以外のいっさいの」などの表現は、集合論のパラドックスの匂いがします。このあたりの思考は私にはちょっと無理なレベルです。頭が追いつきません。

ところで、新実在論では、私が「世界は存在している」と思ったら世界は実在してるのではなかったのでしょうか。とにかく、私にはついて行けない、というのが実感です。

問題は、何のために「世界は存在しない」といっているのか、ということですが、どうやら、形而上学、構築主義の持つ問題点を解決するためのようです。しかし、印象としては、形而上学、構築主義はこういうものと決めつけて、批判を加えているように見えます。形而上学は「現実を観察者のいない世界として一面的に解し」、構築主義は「現実を観察者にとってだけの世界として同じく一面的に解する」のだそうです。そういう主張をする人もいるかもしれませんが、随分狭い解釈のような感じもします。自分の主張を明確にするために、そのような書き方をするのが普通のやりかたなのでしょうか。

結局、私は何が分かったのか

ということで、「なぜ世界は・・」は出だして躓いています。新実在論について何も分かっていません。

これから、気持ちを入れ替えて続きを読むことにします。以前に読んだときの記憶がほとんど消えていますので、新鮮な気持ちで読めると思います。

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