私たちは自動機械か?

私達は、自分には心がある、いつも自分の意識を持ち思考し活動していると思っています。あるいは、意志があるから、つまり、自己があるから何かを考え、行動し、人間として生きていけるのだと思っています。でも、ちょっと、考えてみると、自分の意志を働かせているケースは非常に少ないことに気が付きます。更に驚くべきことに、昔から、人間に自由意志があるかどうかは、哲学的な大きな論争テーマでもあったようです。

ここでは、私達の知らない間に勝手に思考しているなんてことがあるのだろうか、よしんばそれが本当だとしても、私達に意志がないなんてことがあるのだろうか、ということを考えてみます。意志が無いとすれば、私達は自動機械以外のなにものでもない、ということになりますので、意志がないとは考えたくありません。

又、瞑想の世界では自己が大きな問題になります。禅では自己(我)が無いことを悟るのが目標で、ここでも自己がポイントです。その他いろいろな瞑想では自己をコントロールすることが課題になります。マインドフルネス瞑想では、自分の思考をモニターすることが狙いです。自己がないのであれば、そのようなことは不可能に思えますが、本当に自分をモニターあるいはコントロールしているのでしょうか。

人は、自動機械?

まず、人は、かなりの部分、無意識に行動、思考している、つまり、大抵いつも自動運転していることについて考えてみます。

人は、自動的に、無意識に考えている、というのは、とても不思議なことですが、確かに、普段私達は、何を、どのような順で考えようか、等というようなことは全く意識せずに考えています。つまり、ほとんどの場合自動的に考えているようです。

以下では、先ず、体の動きについて考えてみて、それから、思考について考えてみます。

「体の動き」

体については、内蔵などはほとんどコントロールできず、自律的に動いています。四肢は意志の力で動かせるものの、日常的には特に意識せずに自動的に歩いたり走ったりしています。例えば、歩く場合、関節の曲げ方その他をいちいち考えなくても自然に歩いています。

「思考」

思考についても、かなり自動的に考えていることは確かなようです。

何かを判断するということはなかなか知的なことではあるのですが、実際には、過去に得られたあらゆる記憶、入力した情報をすべて活用して判断するのではなく、無意識のうちにその一部だけを使い自動的に判断を下しています。逆に言うと、かなりいい加減な判断の繰り返しをしていることになります。自分のことは分かりづらいのですが、私達の周りの人達の振る舞いを見ると人それぞれ個性のあることが分かります。この個性というのは、たくさんの情報の中からほんの一部を選び出し判断しているために生じるクセのことだと思われます。

おまけに、瞑想をするとすぐ気がつくのですが、意識をどこかに集中しようとしても、すぐにあちこちをさまよい始めます。自分の意識とは一体なんなのか、なさけなくなることがあります。

自己、意識、自由意志は無い?

さて、人がほとんど自動的に体を動かし、自動的に考えているということであれば、人はどんなときに自己意識により行動・思考を操っているのでしょう。

何か問題を解いているとき、あるいは、新しい手法を考えているとき、自分の持っている知識を最大限活用して答えを導くのであって、まったく新しいこと、知識の蓄えの無いことについては答えることはほぼできません。

日常生活では、私なんか、ほとんど惰性で生きています。

そんなことを考えると、人には自己や自由意志があるのだろうか、という気持ちになります。もしそれが本当なら、私たちは自動機械とうことになります。でも、私たちは、自分というものがいると思っています。自分の意志で考えていると思っています。これは一体どういうことなのでしょう。

なお、意識とは、自己とは、自由意志とは、ということを厳密に定義しようとすると、なかなか難しいことのようです。ここでは、おおらかに考えることにします。現在、脳科学、哲学の世界では、自己と思っているもの、あるいは、自由意志、というものは無い、という考えが多いように見えます。とはいえ、何故、自己とか、私という意識が生まれるのかは依然として謎のようです。これは非常に難しい問題のようですが、自分がいると妄想・錯覚している、というのが一先ずの答えではあるようです。その場合、私たちの脳を構成している様々なモジュール(それぞれに特有の役割がある)が集まって、私、という感覚をもたらしている、という説明です。

参考になる図書としては、心理学の立場では、下條信輔「<意識>とはなんだろうか」等、哲学的には、妹尾武治「未来は決まっており、⾃分の意志など存在しない-⼼理学的決定論-」 等があります。瞑想と関連させた文献としては、鈴木裕「無(最高の状態)」などがあります。これらの本を読むと、自己がないとか自由意志がない、という主張が何を意味しているのか、なんとなく分かります。

自己はないのに、何故自分をモニターできるのか

いくら、自己はない、といわれても、私たちが、周りの様子を認識し、自分の意志で判断して、行動しているという感覚から逃れられません。

このような感覚を持つのは自然です。哲学的、心理学的に追求していくのも大変大事ですが、ここでは学問的なことはさておきプラグマティックに考えて済ますほうがよさそうです。つまり、人間は自分を監視しコントロールしている、というのが事実であろうが錯覚であろうがお構いなしに、そういうものなのだ、ということで済ましてしまいましょう、ということです。なにしろ、自由意志の問題、クオリアの問題他、脳のメカニズムはほとんどわかっていないのですから。

ところで、現在人気の瞑想法、マインドフルネスでは、自分の思考をモニターすることをトレーニングするのだ、といわれています。既に書きましたように、私達は殆どの場合無意識に思考しています。些細なことに怒り狂った後に、自分の行いに気づき後悔することも多々あります。客観的には大したことではないのに落ち込んでみたりもします。このような心の動きを容易にモニターできるようにするのがマインドフルネスです。自分の心の動きを短時間に把握(モニター)するのはなかなか難しいことですので練習が必要ではありますが、練習によりできるようになります。

ということで、心の不思議さが分かったところで(哲学的な議論はさておき)、自分の心をモニター、コントロールすることを試してみましょう。

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