仏教の「悟り」とはどういうことか
悟り、というと、私達は仏教の悟りのことを思い浮かべます。しかし、悟りとはどういう状態をいうのでしょうか。悟りについて述べているのは禅僧、というイメージです。ところが、お坊さんによりいろいろな悟り体験があるようです。
悟った瞬間に宇宙と一体になる感覚だとか、華々しいイリュージョンを見るような高揚感が得られるという禅僧の言葉を見たり聞いたりしたことがあります。が、いやいや、悟るというのはストンと腑に落ちる心境だ、という禅僧の言葉を聞いたこともあります。どの方の言葉を信じればよいのか分かりません。日本の禅宗である、臨済宗と曹洞宗との間でも悟りの捉え方が異なるようです。
ということで、悟りを理解することは難しそうですし、そもそも言葉にすることが難しいことなのかもしれません。とてもむずかしそうなので、ここでは、釈迦の考えにアプローチしてみましょう。
初期仏教(釈迦が生きていた頃の仏教)での悟り
釈迦は、悟りとは「苦」から開放され、安寧の状態になることだと捉えました。釈迦は、絶対的な(永遠に続く)自己というものは無いのに(無常)、自己に執着するために苦しみが生まれるのだから、自己を捨て去れば、つまり、自己は存在しないことを会得できれば(無我)、そうすれば悟りに達する、と言っていたようです。そのための瞑想法をいろいろ考えたようです。
釈迦は、無我の状態、欲望や感情に流されなくなる状態を悟りと呼んだようです。無我とは、私達の心に映る全てのことは移り変わるものでフィクションであり、自己といものは存在しないことを意味します。仏教では、自己というものにこだわるかどうか、が悟りの境地と関係があるようです。
悟りを瞑想との関係で表すと、極度に集中すると、深い瞑想状態となり、内側から喜びが湧き上がってくる感覚がするのだそうです。気持ちがよいのだそうです。ただし、これが「悟り」なのかどうか私にはよく分かりません。
その後、大乗仏教では、「空(くう)」を重視するようになりました。「空」に関しては、ブログ「寺社訪問虎の巻 『空』とは何か」に書きました。
ここでは大乗仏教からは離れて、初期の頃の修行について続けます。
初期仏教では、悟りに至る道に、出家と在家の2つのコースがありました。出家とは、人生のすべてを捨てて修行の道に進むことで、在家は、日常の生業を行いながら悟りの道に近づく、というものです。釈迦は在家も大事にしたようですが、修行の中心はどうしても出家ということになります。
出家コース
現在、絶対的な自己は存在しない、ということは、哲学者や脳科学の研究者の多くが同意するようですが、釈迦の時代には、科学的な理論は知られていませんでした。そのため、自己は存在しないと悟るためには瞑想を主体とする非常に厳しい修行が必要であり、そのためにはすべてを捨てて出家せざるをえませんでした。つまり、日常の生活を送りながら悟ることは不可能でした。出家すると、一切の生産活動は行いませんので、在家を含む一般社会に依存することになります。ある意味、出家は一部の人の特権でした。
在家コース
普段の生活を営みながら厳しい修行をするのは大変です。在家は、日常の生活、生産活動をしながら修行をしました。瞑想もある程度したのだろうとは思いますが、釈迦は、在家には慈悲の心を持って生きることを強調しました。慈悲の心を持ち生きることで、苦しみを避けられるので、在家にも悟りへの道があることを示しました。つまり、人のために尽くすことは、心を安寧に充実感あふれるものにしますので、納得の教えです。
慈悲の心
上に書いたように、釈迦は、自生の苦を除くために大事なこととして、瞑想の他に慈悲の心を大変重視しました。これは、出家も在家も同じです。しかし、慈悲の心を持ちながら生きることで、苦しみを避けられるので、在家にも道があることを示したわけです。
ということで、悟りとは、心が安寧な状態であり、それは苦から逃れた状態だ、とうことのようです。ならば、苦とはなんでしょうか。
仏教の苦(生病老死)
上に書きましたように、釈迦が、生病老死はすべて苦だと言ったそうです。では、苦とは何か、ここで整理してみます。
まず、言葉の上では生から始まっていまが、生については後にまわしましょう。
病については医学が進み、大抵の病気ば医者になんとかしてもらえる時代になりました。釈迦の時代に比べると、治る病気が桁違いに増えました。でも、どうにもならない助からない病も少なからずあります。
老については、今の日本では老後の生活が苦しい人がとても増えているようです。これは政治・経済の問題といえますが、お金の問題ではなくても、老後の生活や環境が若い頃に思っていたものとは違ってしまい、苦しんでいる人も多くいます。
死については、寿命が随分のびて、もっと生きたいと願う人は徐々に減ってきているかもしれませんが、死は突然やってくる依然として最も深刻な問題です。
それでは、最初の生については、何が苦なのでしょうか。生きることが苦しいときは確かにあります。本当の自分が分からないと悩んでいる人もいます。自分が望むような生を送ることができない、思う通りいかないことで苦しむ人も大勢います。
つまり、それらをすべてひっくるめ、釈迦は、苦とは思い通りにならないことだと言ったようで、これは納得できます。確かに、思い通りにならないと、ストレスにさらされ、不安に苛まれ、怒りに満ちた状況に陥ります。
人にはいろいろな苦しみが襲いかかります(一の矢)。そのとき、その苦しみに対処することが大事なのですが、これから起きるであろう心配事を色々考えたりしてますます苦しみのスパイラルに落ち込みます。自分の置かれた状況に納得することができず、あるいは適切な対処ができず、更なる苦しみに入り込むことを釈迦は「二の矢」と読んでそこから逃れることを諭しました。
結局「悟り」とは何か
初期仏教の悟りについて、いろいろ調べてみてなんとなく納得できました。しかし、禅の悟りについては手を抜きました。悪しからず。